熊楠のクリスマス

メリクマ〜♪ 『南方熊楠全集』に収められた熊楠の文章のなかでクリスマスのことに触れているのはこの箇所だけ。

英国にクリスマスの前夜、ホリー(モチノキの一族)を売ること、わが国節分にヒイラギを売るごとし。ホリーの葉に刺あるものは、素人にはヒイラギと見分けのつかぬほど似たり。葉に刺あるを戸にさせば男の威強く、刺なきをさせば女の威強しなどいう。小生は何故これを用うるかはちょっと知らぬが、まずはやはり刺にて鬼を逐う旧風ののこりと存じ候。(クリスマスは、ヒーゼン時代の冬至また新年を祝せし季節が偶然キリスト降誕に近きゆえ、それへ持ち込みしなり。)
(明治45年5月23日付高木俊雄宛書簡『南方熊楠全集第八巻』543頁)

東京上野の国立科学博物館では  記念企画展「南方熊楠 100年早かった智の人」が開催中!
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ロンドン時代の南方熊楠の12月24,25日

ロンドン時代の南方熊楠の12月24,25日。熊楠の日記より(『南方熊楠日記1』『南方熊楠日記2』(八坂書房)より、てつが現代語訳)。

1895年12月25日(水)
加藤を訪ね、飯を食う。

※ ※ ※

1896年12月24日(木)曇り
夜雨。食後バグタニと博物館人類学部及びキングス・ライブラリーを見る。

※ ※ ※

1897年12月24日(金)
朝10時頃、高橋とともに書物をつむことを助けられる。カレーを食い、高橋が去ってから、加藤を訪ね、また大倉を訪ねるが、不在。
予は博物館に行き、ダグラスに面会し、またチケットを取り戻し、8時まで読書。帰途、高橋方に泊まる。

1897年12月25日(土)曇り
朝大霧。高橋は外出、用を立たせずに帰る。
11時高橋とともに宅に帰り、昼飯を食い、3時半頃に高橋は加藤方に行き、30分ばかり待ち、家に帰る。
予は7時半頃高橋方に行き、缶詰の鮭で酒を飲み、泊まる。(高橋は家主婦子供とサイコロを振り、また宝引きしたとのこと)
本日は霜がとけなかった。

※ ※ ※

1898年12月24日(土)
遅くまで臥す。
夕方リード氏を訪ね、面会する。ウチワ2本を贈る。それから児玉氏を訪ねたが、不在。よって帰り、老婆の倅に3シリングやる。それから出て、近所を歩く。
伊東氏から手紙を1通受ける。

1898年12月25日(日)快晴
一日中部屋にいる。しばらくの間、福地氏の幕府衰亡論を探すが見つからず。夜遅く臥す。

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1899年12月24日(日)霧
午後、高橋を訪ね、4時過ぎからともに飯田を訪ね、5時過ぎにようやく訪ね当たる。(高橋は飯田の番地を知らなかった。ようやく飯田の旧居の隣りで聞き合わせたが、それでもわからない。たまたま小児に聞いてわかる)立談するのみ。まったく無挨拶である。這々の体で逃げ帰る。ヒル・ストリートで分かれ、予はフロム・ロードにて6ペンス豚肉を買い飲み、また高橋を訪ねた。カーが出てきて、高橋はすでに寝たという。

1899年12月25日(月)晴
午後3時まで臥す。それから高橋を訪ね、数通手紙を認める。
夜、同人が来る。ともに出て、飲んで帰る。
『風俗画報』を17冊貸す。

とくにクリスマスっぽいことはしていないようですが、クリスマスイブの今日は、東京上野の国立科学博物館で開催中の 記念企画展「南方熊楠 100年早かった智の人」へぜひどうぞ♪

使用済み核燃料の中間貯蔵施設

私は熊野地方を世界的な観光地にしたいと考えていますが、使用済み核燃料の中間貯蔵施設は熊野の地域ブランドにマイナスの影響しか与えないように思います。

熊野地方では日置川町(現白浜町)、那智勝浦町、古座町(現串本町)、紀伊長島町(現紀北町)、海山町(現紀北町)、熊野市に原子力発電所の建設計画がありましたが、熊野の住民たちはこれらをことごとく拒みました。

熊野には原発はいらないし、使用済み核燃料の中間貯蔵施設もいらない、と私は考えます。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産の登録基準による評価

昨日の和歌山大学南紀熊野サテライトの永瀬先生による学部開放授業より。「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産の登録基準による評価。「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す神道と仏教との比類のない融合」。これが評価された。

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」

‪観光で来られるお客様に対して私たちは「神道と仏教との比類のない融合」の一端でも示すことができているのか。‬