闘鶏神社境内にて9/28に薪能開催

闘鶏神社創建1600年を記念して9月28日(土)に闘鶏神社境内にて薪能が開催されます。
上演される能の演目は「安宅」「船弁慶」「土蜘蛛」。いずれも闘鶏神社で演じるのにふさわしい演目です。

●「安宅」は弁慶がシテ(主役)。弁慶熊野別当の子とされ、田辺が生誕の地だと伝えられます。

源頼朝と不仲となった義経は、弁慶などの家臣とともに山伏の姿となり、奥州平泉を目指す。安宅の関で弁慶が勧進帳を読み上げ、義経を杖で打ち、難を逃れる。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku170.html

●「船弁慶」は弁慶がワキ(脇役)。

船で西国に下る義経弁慶主従の前に平知盛の霊が現れて義経を海に沈めようとする。弁慶が平知盛の霊を祈り伏せる。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku238.html

●「土蜘蛛」に登場する名刀・膝丸(ひざまる)は「剣の巻」では後に熊野権現に奉納され、熊野別当湛増から源義経に贈られたと語られます。

病気で臥せる源頼光(みなもとのらいこう)のもとへ見知らぬ法師が現れた。その法師の正体は蜘蛛の化け物で、頼光を襲った。頼光は源氏に代々伝わる名刀、膝丸(ひざまる)を手に取り、斬りつけた。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku234.html

世界遺産 闘鶏神社創建千六百年 田辺薪能 2019.9.28
世界遺産 闘鶏神社創建千六百年 田辺薪能 2019.9.28

伝説のスーパー歌舞伎「オグリ」が蘇る!

中世の物語「小栗判官」を元に梅原猛と三世市川猿之助(現猿翁)が作り上げ、1991年に初演されたスーパー歌舞伎「オグリ」。

その伝説のスーパー歌舞伎が当代猿之助の手によりスーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)「新版オグリ」として蘇ります!

10月6日~11月25日の東京・新橋演舞場を皮切りに、福岡・博多座や京都・南座にて上演!
https://www.kabuki-bito.jp/theaters/shinbashi/play/622

小栗判官の物語は、当時業病とされたハンセン病患者をも受け入れて浄化を施すことができる特別な聖地なのだと、熊野の聖なるイメージを中世の日本人たちに浸透させていきました。熊野にとってとても大切な物語です。

原作の梅原猛先生も熊野にとって大切な人でした。

スーパー歌舞伎「オグリ」の原作。

私による小栗判官の現代語訳はこちら

終戦記念日の今日、熊野出身の禅僧、山本玄峰老師について

終戦記念日、日本の降伏を国民に伝えた日である今日は、熊野出身の禅僧・山本玄峰老師について。

山本玄峰老師は慶応2年、明治になる2年前に湯の峰で生まれました。
生誕地である湯の峰にはその遺徳を忍ぶ玄峰塔と刻まれた石塔が建っています。

然れども朕は時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。

玉音放送 – Wikipedia

昭和20年(1945年)8月15日正午に日本の降伏を伝えた玉音放送の一節ですが、
これの「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の文言は、玄峰老師が鈴木貫太郎首相に宛てて送った書簡から取って用いられたもののようです。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は禅宗の始祖の達磨大師の言葉で、この言葉を使って玄峰老師は終戦に向けて力を尽くしていた鈴木首相を励ましました。

日本が降伏する5ヶ月ほど前の3月25日に、玄峰老師は、その後4月7日に首相となる鈴木勘太郎と会談し、日本を守るためには一刻も早く無条件降伏することだと進言したといわれます。

もし仮に日本が4月中に降伏していたとしたら、横浜大空襲もなく台北大空襲もなく静岡大空襲もなく、沖縄戦での被害も小さくて済み、そして広島や長崎に原爆が投下されることもありませんでした。

戦争はどう終わらせるのかが大事ですが、「一億玉砕」や「一億総特攻」をスローガンとした当時の戦争指導者は戦争の終わらせ方について真剣に考えていなかったのでしょう。

また戦後の象徴天皇制も、天皇をどうするかで悩んでいた新憲法の制定委員会が玄峰老師の示唆を受け入れて作り出されたものでした。

日本人は天皇陛下万歳と言って死んでいく。天皇を除かなければ世界から認められない。しかし天皇を除けば日本国民がアメリカに反抗する。そうなればそれを口実にソ連が進駐してくる。そうした状況の中で天皇をどうしたらよいのか。

玄峰老師が示唆したのは、天皇は一切政治に関係しない、主権は日本国民にあり、天皇を国民全体の象徴とし、政治を担当する者は国民を象徴する天皇の気持ちを受けて政治を行うという形にしてはどうかということでした。

これは敗戦直後の時点での天皇をどうするかの解決方法としてはよい答えであったと思います。もっともっと長い目で見たらどうなのかはわかりませんが、あの時点の短期的な視点で見ればおそらくベストの答えであったのではないかと。

しかしながら、象徴天皇制は皇室や日本国民に向けて玄峰老師が与えた公案、難解な課題であるようにも思います。

平成の天皇陛下は即位したときからずっと象徴としての天皇のあり方を模索し続けてこられたことと思います。

平成の天皇陛下は国民全体に寄り添うことで、社会的に強い立場にいる人々にだけでなく弱い立場にいる人々、苦しんでいる人々にも心を寄せることで、日本国および日本国民統合の象徴としての天皇の務めを果たそうとされておられたのだと思います。

今年5月1日に即位された新天皇陛下は「即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)」で次のように述べられました。

常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。

即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば:天皇陛下のおことば – 宮内庁

山本玄峰老師は昭和36年(1961年)6月3日に96歳で亡くなりました。湯の峰近くの渡瀬という地区にお墓があります。

また命日の6月3日には毎年、湯の峰の玄峰塔の前で玄峰老師頌徳会により毎歳忌法要法要が営まれています。玄峰塔に刻まれた文字は玄峰老師自らが亡くなる2週間前に書かれた書を写し彫ったものです。