本日2月24日は河口慧海の命日

Ekai Kawaguchi by Zaida Ben-Yusuf, c1899.jpg
Platinum print of Ekai Kawaguchi Zaida Ben-Yusuf – Philadelphia Museum of Art, パブリック・ドメイン, リンクによる

本日2月24日は河口慧海(かわぐち えかい)の命日。
仏教の原典を求め日本人として初めてチベット・ラサに潜入した仏教学者、探検家。1945年(昭和20年)2月24日に河口慧海は亡くなりました。

河口慧海は1866年(慶応2年)生まれ。南方熊楠より1歳だけ上の熊楠と同時代の人物です。熊楠も若い頃にはチベットに行くことを夢見ていました。

小生はたぶん今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより船にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。

土宜法龍宛書簡、日付なし『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、239頁

ロンドン時代に熊楠は真言宗の僧侶・土宜法龍に宛てた書簡でチベット行きの夢を語りました。書簡の続き。

インドよりチベットへ行く途ははなはだ難き由申せども、私考には何でもなきことと存じ候。むかし玄奘、法顕諸師のことはさておきぬ、回々教のイブン・バツタと申すもの、アフリカ、インド、支那、チベットの間七万五千マイルをあるきたることの記録ものこりおり候えば、運命さえあらば何するもできぬことはなく、運命なければ綿の上へ死ぬる人もあることと信ぜられ申し候。

土宜法龍宛書簡、日付なし『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、239-240頁

熊楠がチベットに行っていたらどうなっていたのでしょうか?

本日2月22日は猫の日なので『熊楠と猫』

熊楠と猫

本日2月22日は「にゃん、にゃん、にゃん」で「猫の日」なので、『熊楠と猫』を。

南方熊楠は猫好きであったようです。熊楠の猫エピソードでよく紹介されるのがアメリカ時代の出来事。

小生二十二、三のとき、米国ミシガン州アナバという小市の郊外三、四マイルの深林に採集中、大吹雪となり走り帰るうち、生まれて一月にならぬ子猫が道を失い、雪中を小生に随い走る。小生ちょうど国元の妹の訃に接せし数日後で、仏家の転生のことなど思い、もし妹がこの猫に生まれあったら棄つるに忍びずと、上衣のポケットに入れて走りしも、しばしばしばそれより出て走る。小さいものゆえ小生に追いつき能わず哀しみ鳴く。歩を停めて拾い上ぐ。幾度も幾度もポケットに入れしも、やがてまた落ち出る。

昭和8年1月28日付、岩田準一書簡『南方熊楠全集』第9巻、平凡社、172-173頁

妹の生まれ変わりかもしれないと思ったこの子猫を、熊楠は結局救えませんでした。

この書簡を書いたとき熊楠は60歳を過ぎていましたが、「今も惆恨致し候」と、救えなかったことを悔やんでいました。

今は世界遺産の神倉神社でさえ明治時代には

昨日、お燈祭りが斎行された神倉神社
神倉山は熊野の神が熊野において最初に降臨した聖地であると考えられ、そのため神倉社は熊野根本神蔵大権現とも称されました。熊野信仰にとってとても重要な場所です。

神倉社は中世には修験道の修行の場であり、近世になっても神職はおらず社僧が祭祀を執り行なっていたため、明治初期に政府が行った神仏分離は神倉社に荒廃をもたらしました。

熊野新宮の神倉山に左甚五郎が立てた高名の掛作りがあったが、維新後、神仏混淆廃止で滅却された、今もかの辺で大工の宴会に、「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と唄う、と。

「読『一代男輪講』」『南方熊楠全集』4巻

江戸時代初期の伝説的の名工・左甚五郎が建てたとされた神倉社の拝殿も明治初期に神仏分離で失われました(台風で倒壊したとも火事で焼失したともいわれます。わずか150年ほど前のことですがはっきりしません。何はともあれ神倉社の拝殿や本殿は失われました)。

荒廃した神倉社は明治末期には合祀されました。神倉社の神様は他の神社に移動させられて神倉社は廃社となり、神倉山は神様不在とされました。

次に新宮には……万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖高倉下命を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。

「神社合祀に関する意見(原稿)」白井光太郎宛書簡、明治45年2月9日付『南方熊楠全集』7巻

「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売」したのは明治40年(1907年)のことで、このときに神倉社も合祀されました。

神倉社は火災があったときには廃朝しなければならないほどに重要な神社でした。廃朝とは天皇が服喪や天変地異などのために政務を執らないこと。国家にとって重要な神社に火災が起きたときには数日間の廃朝が行われました。

それほどの神倉社でさえも合祀されましたが、さすがに他の新宮町の神社と待遇を同じくするわけにはいきませんでした。

他の新宮町の神社は旧社地を売却され森を伐られて神社が元に戻れないようにされて速玉神社(現・熊野速玉大社)境内社の琴平社(現・新宮神社)に合祀されたのに対し、神倉社は速玉神社に直接合祀されるという形になり、また合祀された神社としては異例のことですが、旧社地は売却されることもありませんでした。

そのため神倉社は大正7年(1918年)には速玉神社の摂社としてですが、神倉社の神様を旧社地に戻すことができました。合祀された神社が復社されるのは異例のことですが、合祀時の異例の対応がそれを可能にしました。

昭和4年(1929年)にはゴトビキ岩の傍に本殿が再建され、またその後、社務所や鳥居なども再建されました。そして今では世界遺産です。

しかしながら「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と歌われた拝殿は150年ほど前に失われたまま、いまだ再建できていません。

神仏分離、神社合祀。明治政府の宗教政策は熊野をボロボロにしました。合祀され廃社にされた他の新宮町の神社も現存していれば世界遺産になったものもあったかもしれません。