2月23日は富士山の日、熊野地方にもあるご当地富士山

三里富士

今日2月23日は富士山の日。

写真中央に写っているのは百前森山(ひゃくぜんもりやま:782.7m)。

熊野地方にあるご当地富士山(郷土富士、ふるさと富士)。和歌山県三里村(現・和歌山県田辺市本宮町)の麓から見ると富士山のような形に見えることから三里富士(みさとふじ)と呼ばれます。

ちなみに富士山の見える最遠の地とされる地点は熊野にあります。
和歌山県那智勝浦町口色川の色川富士見峠(小麦峠から2008年9月18日に名称変更)。その距離322.9km。
富士山最遠望写真

本日2月22日は猫の日なので『熊楠と猫』

熊楠と猫

本日2月22日は「にゃん、にゃん、にゃん」で「猫の日」なので、『熊楠と猫』を。

南方熊楠は猫好きであったようです。熊楠の猫エピソードでよく紹介されるのがアメリカ時代の出来事。

小生二十二、三のとき、米国ミシガン州アナバという小市の郊外三、四マイルの深林に採集中、大吹雪となり走り帰るうち、生まれて一月にならぬ子猫が道を失い、雪中を小生に随い走る。小生ちょうど国元の妹の訃に接せし数日後で、仏家の転生のことなど思い、もし妹がこの猫に生まれあったら棄つるに忍びずと、上衣のポケットに入れて走りしも、しばしばしばそれより出て走る。小さいものゆえ小生に追いつき能わず哀しみ鳴く。歩を停めて拾い上ぐ。幾度も幾度もポケットに入れしも、やがてまた落ち出る。

昭和8年1月28日付、岩田準一書簡『南方熊楠全集』第9巻、平凡社、172-173頁

妹の生まれ変わりかもしれないと思ったこの子猫を、熊楠は結局救えませんでした。

この書簡を書いたとき熊楠は60歳を過ぎていましたが、「今も惆恨致し候」と、救えなかったことを悔やんでいました。

神倉神社廃社後のお燈まつり

牟婁新報(復刻版)』第14巻(不二出版)より

神倉神社は神社合祀で明治40年(1907年)に廃社となり、その後大正7年(1918年)に復社を果たしました。その間、お燈祭りはどうなっていたのでしょうか。

神社が廃されたらお祭りも廃されるのが普通のように思いますが、田辺の地方新聞『牟婁新報』の明治45年(1912年)2月7日付の紙面にお燈祭りのことが書かれた記事がありました。

新宮のお燈祭り 六日の夜新宮町神倉山に於いて例年の通り「お燈祭り」を挙行せし由、この祭礼は由緒多き我が熊野にてもここばかりなり、登山者は皆白装束を為し山上にて一斉に松火(たいまつ)を点け社に詣で、先を競うて馳せ下るなり、その様の勇壮にして古雅なる実に熊野人の一大特典として誇るべきなり、然るに肝心の神社は既に合祀の厄に罹り去る。人民これに屈せずかく賑々しく祭礼を行うは大いに注目の価あり

「見たり聞たり」『牟婁新報』明治45年2月7日付

廃社となった神社のお祭りを続けるというのはなかなか難しいことだったと思いますが、新宮の町の人たちにとってお燈祭りは失うわけにはいかない大切なものだったのですね。

神仏が分離され、修験道が禁止された明治時代にあっても、お燈祭りが新宮人の誇りであったことがわかってよかったです。

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