これをやったのは熊野の湛増だけ

梅原猛さんのご著書をパラパラと読み返しています。

あのときはね、何とか言ったな、長慶の何とかっていうんですね、熊野と伊勢はどっちが尊いかということを後鳥羽上皇が学者たちに意見を出させるんですよ。そのとき、「同体」だというふうに言うんです。それはみんな後鳥羽のご機嫌をとるために同体だというふうに言うわけですね。同体だけど、伊勢さんは純粋な神様だ、仏様はない、熊野は神様であると同時に、仏様である。熊野は阿弥陀浄土ですからね、熊野のほうが上になっちまうんですね。そういうことで熊野の湛増というのが伊勢神宮に暴れ込むんですね。あれは日本の歴史の中でかれだけでしょう。伊勢の神宮に侵入して、伊勢の宝物をぶち毀したのは。これをやったのは熊野の湛増だけですわ。それは自分のとこが伊勢と同格、あるいは上になったのでああいうことをしたと思うんですけれどもね。
(梅原猛、中上健次『君は弥生人か縄文人か』集英社文庫、49頁)

「長慶の何とか」は長慶ではなく長寛で、長寛勘文(ちょうかんのかんもん、ちょうかんかんもん)。

後鳥羽上皇とあるのは梅原さんの勘違いで、実際は後白河上皇が学者に意見を出させた勘文(報告書)。伊勢の神様と熊野の神様が同体であるか否かが論議され、結局非同体という結論が出ましたが、伊勢熊野同体説は一時期、中央においても広く信じられていました。

湛増は第21代熊野別当。湛増が伊勢神宮に暴れ込んだことは鎌倉幕府が編さんした歴史書『吾妻鑑(東鏡)』に記されています。以下、『紀伊続風土記』より孫引き(私による現代語訳)。

また『東鑑』治承5年3月6日壬午の条に「大中臣能親、伊勢の国より書状を中八維平のもとに通す。この書状は、去る正月19日、熊野山湛増の従類と号し、伊雑宮に濫入し、御殿を錐り破り、神宝を犯して用いたため、一の禰宜の成長神主の命令で御神体を内宮に遷し奉るところを、同26日、件の輩衆がまた山田・宇治両郷に襲来し、人屋を焼失し、資財を奪い取った。天照大神鎮坐以降千百余年、皇御孫の尊垂跡の後六百余年、未だこのような例はなかった。今は源家再興の世である。当然、謹慎の儀があるべきなのに、という内容であった。維平はこの書状を頼朝さまにお見せになった。湛増は味方であるのに、このような企てがあるとは、と頼朝さまはたいそう驚いてお聞きになった。敬神のために御立願あるべき旨を報じ仰せられた云々」とある。
第21代熊野別当 湛増:紀伊続風土記 現代語訳

たしかに、熊野は伊勢と同格、もしくは熊野のほうが上という認識がなければ伊勢神宮に暴れ込むなんてことはできないですよね。

湛増忌に思う

湛増所持の鉄扇

本日5月8日は、歴史上最も有名な熊野別当・湛増の命日です。湛増は建久9年5月8日(1198年6月14日)に69歳で亡くなりました。

熊野は明治以降虐げられ、破壊され、力を失いましたが、熊野を再興した後に振り返って、今の熊野の隆盛があるのは逆に明治の苦難があったからだと言えるようにできたらなあ、と思います。

日本中の人たちの憧れの地であった熊野。 である今日、あらためて熊野再興への思いを強くします。

熊野再興のための鍵となるのが、湛増とわずかながらもつながりがあり、明治政府の神社合祀政策に敢然と立ち向かって熊野を守ろうと戦った南方熊楠です。

湛増が闘鶏を行って神意を占った闘雞神社の森を守ったのも熊楠でした。

熊楠の文章をもっと多くの人に読んでいただきたいと思って、口語訳を公開しています。とくに読んでいただきたいのが、神社合祀反対運動の最中に書かれた「神社合祀に関する意見」と「南方二書」。

写真は闘雞神社が所蔵する、湛増が所持したと伝わる鉄扇。