和歌山県立田辺高校のスーパーグローバルハイスクールアソシエート校、ユネスコスクールの取り組み

先日出席した紀南ユネスコ協会の総会で、総会前に、和歌山県立田辺高校の和田充可先生のご講演がありました。

和田先生が田辺高校で行ってきたスーパーグローバルハイスクール(アソシエート校)、ユネスコスクールの取り組みについてのお話。

「日本・世界で活躍する人は郷土に誇りを持っている。郷土愛が心の芯になるのだ」というお話には感銘を受けました。

地域活性化のためには何よりも郷土教育が大切です。人口減少をどこかの段階で止めることや、地域内消費額を増やすことを実現するには、何よりも地域住民の地域への誇りと愛着が必要です。

和田先生のお話を聴いて、地域への誇りと愛着を育む教育をしている高校が田辺市にあることを知り、とても嬉しくなりました。

南方熊楠は今から百年ほど前に田辺に暮らし、熊野という地域に誇りと愛着を持ち、世界を舞台に活躍しました。

今後、田辺高校の卒業生から、地元に暮らしながら世界的な活躍をする人たちが多く登場することを期待しております。

6月1日は南方熊楠が神島に初めて上陸した日。そして

6月1日は南方熊楠が初めて神島に上陸した日(明治35年6月1日)。

そして熊楠が神島で昭和天皇に拝謁した日(初上陸から27年後の昭和4年6月1日)。

偶然なのでしょうが、運命的なものを感じます。

神島に建てられた昭和天皇行幸記念碑には熊楠がご進講の日の感激を詠んだ歌が刻まれています。

昭和四年六月一日
至尊登臨之聖蹟
一枝もこころして吹け沖つ風
わか天皇のめてましゝ森そ
南方熊楠謹詠并書

ここにも6月1日(昭和4年6月1日)の日付が刻まれ、また碑の裏面にも記念碑の除幕式が行われた6月1日(昭和5年6月1日)の日付が刻まれています。

神島は現在、国の天然記念物で、また国の名勝「南方曼陀羅の風景地 」の一部。島内への立入りは禁止されており、上陸には田辺市教育委員会の許可が必要。

南方熊楠ゆかりの地6 闘雞神社

南方熊楠ゆかりの地紹介、第6回目は和歌山県田辺市にある闘雞神社

千代田区立日比谷図書文化館にて6月14日(木)に開催される日比谷カレッジ「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」に向けて熊楠ゆかりの地を紹介しています。

小生、熊野植物精査西牟婁郡の分の基点は、実にこの闘鶏社の神林にて、言わば一坪ごとに奇異貴重の植物があるなり。
(「菌学に関する南方先生の書簡」『南方熊楠全集6』平凡社、114頁)

熊楠の熊野植物研究の「西牟婁郡の分の基点」がこの闘雞神社の森でした。

さすがに日本の歴史的にも重要な神社なので明治末期にも合祀されることはありませんでしたが、それでも森の伐採は行われました。熊楠の強い抗議により伐採は中止となりましたが、奇異貴重の植物は数を減らし、あるいは絶滅しました。

現在、闘雞神社は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部であり、また国の名勝「南方曼陀羅の風景地」の一部。

日比谷カレッジ関連展示の熊楠ゆかりの地の写真展・ポスター展はすでに開催中。6月17日まで。写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。

南方熊楠ゆかりの地5 南方熊楠邸

南方熊楠ゆかりの地紹介、第5回目は和歌山県田辺市にある南方熊楠邸

千代田区立日比谷図書文化館にて開催される「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」の写真展・ポスター展(5月22日〜6月17日)、シンポジウム(6月14日)に向けて熊楠ゆかりの地を紹介しています。

南方熊楠が二十五年を過ごし、終の住まいとした邸。熊楠邸は娘文枝の遺志で田辺市に寄贈され、現在は国の登録有形文化財。隣接して南方熊楠顕彰館があります。

庭は熊楠の研究園であり、菌類や変形菌を生やすために朽ち木が山と積まれ、落ち葉は積もるがままにされたそうです。数百種の顕花植物が生えていたといわれ、とりわけ母屋の前に生える楠は熊楠の自慢でした。

予が現住宅地に大きな樟の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節書斎から本宅へ走り往くを援護する、その功抜群だ。
(「巨樹の翁の話」『南方熊楠全集2巻』平凡社、47頁)

こちらの書斎と母屋を急雨の際に行き来するのに楠が助けてくれました。

熊楠は自分の名前にある楠に特別なつながりを感じていました。熊楠の名前は、和歌山県海南市にある藤白神社の神主から授かったものです。

藤白神社はもと熊野九十九王子の1つ、藤白王子。熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高いものとしてされた五体王子です。藤白王子には「熊野一の鳥居」と称される熊野の入口とされた大鳥居がかつてありました。

藤白神社の神主は子供の名前に、熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に楠神として祀られている楠の大樹にちなんだ「楠」などのうちから1字を授けました。

なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。
(「南紀特有の人名」『南方熊楠全集3巻』平凡社、439頁)

熊楠という名前の意味するところは「熊野の楠」であり、熊楠の神社合祀反対運動はまさに熊野の楠を守る戦いでもありました。

写真展・ポスター展の写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。

南方熊楠ゆかりの地4 日吉神社

南方熊楠ゆかりの地紹介。第4回目は和歌山県田辺市にある日吉神社

千代田区立日比谷図書文化館にて開催される「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」の写真展・ポスター展(5月22日〜6月17日)、シンポジウム(6月14日)に向けて熊楠ゆかりの地を紹介しています。

礒間の日吉社、御子浜の神楽社は、これに中入するに奇橋岩を以てし、田辺湾中第一の絶景なる上、上出如き珍異の生物少なからず。
(「楠見郡長に与る書 (下)」明治42年10月3日『牟婁新報』)

熊楠が「田辺湾中第一の絶景」と称賛した、礒間の日吉神社と御子浜の神楽神社と鬼橋岩と、礒間浦がそこに生み出す風景。

行く行くこの辺へ都会の人士来たりて観光する時の奇賞はこの間に集まるべきなり。
(「神島のバクチの木に関する補遺、及び天然記念物保護」明治44年8月9日付『牟婁新報』)

日吉神社から神楽神社にかけての辺りがこの地域の観光の見所となるだろう、と熊楠は考えていました。

この日吉神社も熊楠たちの合祀反対の抗議のおかげで守られた神社です。

猴神の古社あって今は日吉神社と号し、先年合祀さるるところを予輩烈しく抗議して免れた。
(「紀州俗伝」『南方熊楠全集2巻』平凡社、361頁)

神仏分離以前の社名は山王権現社。
土地の人々には「猿神さん」と呼ばれ、お祭りにはお猿の神輿が出ます。

道中より青年団のお猿さん、獅子舞、子供神輿、鼓笛隊が前後について最高潮の賑いとなり見物人が大勢つめかける。お猿と獅子と神輿が乱舞交錯、練り続き3時すぎ神輿は宮へ還幸す。
(『和歌山県神社誌』和歌山県神社庁、339頁)。

以前はこの猴神の祭りへ日高郡等遠方から農民おびただしく参詣した。「さるまさる」と言うて、猴を農家で蕃殖の獣として尊ぶのだそうな。
(「紀州俗伝」『南方熊楠全集2巻』平凡社、361頁)

遠方からおびただしく農民が集まったというこのお祭りも、熊楠がいなければ失われていたところでした。

お祭りは昔は12月の申の日に行われましたが、現在は11月3日に行なわれます。

写真展・ポスター展の写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。