新宿熊野ツアー5 角筈地域センター

新宿熊野ツアーで訪れた場所5つ目は、角筈地域センター。ここの会議室で熊野についてのミニレクチャーを行いました。

ミニレクチャーについてはまた別のページで。こちらのページでは角筈(つのはず)について。

角筈という地名の由来には諸説あるようですが、熊野にルーツを持つ中野長者鈴木九郎にまつわる以下のような説もあります。

中野長者と呼ばれるほどの富豪となり、熊野神社を創建した鈴木九郎は在家のまま神仏をお祀りする修行者となりました。九郎は、修行者の持ち物である角筈と呼ばれる先端部に鹿の角をつけた杖を持って歩きました。そのため、この辺りの土地を「角筈」と呼ぶようになりました。

明治44年(1911年)の地図。写真中央辺りに熊野神社があります。大字角筈の地名も見えます。

角筈の地名は戦後徐々に失われていき、町名としての角筈は昭和53年(1978年)に廃止され、現在では角筈地域センター、角筈公園などにその名残を残しています。新宿区西新宿、歌舞伎町および新宿の一部がかつての角筈でした。

新宿熊野ツアー4 東京都庁舎

新宿熊野ツアーで訪れた場所4つ目は、十二社熊野神社(じゅうにそうくまのじんじゃ)の近くにある東京都庁舎。

展望室から中野長者鈴木九郎が開拓した土地を見下ろしました。

写真中央が鈴木九郎創建の十二社熊野神社

写真中央が鈴木九郎開基の成願寺

中野や新宿は、鈴木九郎という熊野にルーツを持つ人物が切り開いた場所なのです。

都庁舎は淀橋浄水場の跡地に立っています。淀橋という地名は神田川にかかる「淀橋」という名の橋に因みますが、その橋のかつての名は「姿見ずの橋」。

中野長者と呼ばれるほどの富豪になった鈴木九郎は、増える財産の保管に困って人夫を雇い、この橋を渡った向こうの人跡まれな場所に財産を埋め隠すようになった。鈴木九郎はその隠し場所を洩らされるのを恐れて、人夫を作業後に斬り殺しては、その死体を隠していた。橋を渡った人夫は原野に消え、二度と戻ってくることはなかった。そこで、その橋を人々は「姿見ずの橋」とも「おもかげ橋」とも呼んで恐れた、という話が伝わります。

「姿見ずの橋」が淀橋と改名されたのは江戸時代になってからのようです。

新宿熊野ツアー3 中野長者鈴木九郎創建、十二社熊野神社

先日開催した新宿熊野ツアーで訪れた場所3つ目は、東京都新宿区西新宿にある十二社熊野神社(じゅうにそうくまのじんじゃ)です。

熊野神社前。新宿中央公園や東京都庁の近くに熊野神社はあります。

室町時代、当時原野であった中野や新宿の地を開拓したのが、熊野神社で祭祀を務めた家柄の血筋を引く鈴木九郎という人物。

鈴木九郎は紀州藤代から移住し、当時は漠然と中野と呼ばれていた原野を切り開き、田畑を耕し馬を育てて成功し、大富豪となりました。

「中野長者」と呼ばれるようになった鈴木九郎は、邸宅から少し離れた所にある森に熊野神を勧請し、熊野神社を創建しました。それが今の新宿の総鎮守である十二社熊野神社です。

新宿熊野ツアー2 中野長者鈴木九郎開基のお寺、成願寺

先日開催した新宿熊野ツアーで訪れた場所2つ目は、東京都中野区本町にある多宝山成願寺。中野長者開基のお寺です。

室町時代、当時原野であった中野や新宿の地を開拓したのが、熊野で祭祀を務めた家柄の血筋を引く鈴木九郎という人物。

鈴木九郎は紀州藤代から移住し、当時は漠然と中野と呼ばれていた原野を切り開き、田畑を耕し馬を育てて成功し、大富豪となりました。

「中野長者」と呼ばれるようになった鈴木九郎は、邸宅から少し離れた所にある森に熊野神を勧請し、熊野神社を創建しました。それが今の新宿の総鎮守である十二社熊野神社(じゅうにそうくまのじんじゃ)です。

鈴木九郎は娘の死をきっかけに出家し、十二社池(じゅうにそういけ)の畔にお堂を建てました。これが成願寺の始まりで、その後、江戸時代に旧九郎邸に移されました。

開基、中野長者鈴木九郎のお墓。

成願寺は十二社熊野神社の別当寺として神社を管理しましたが、明治の神仏分離によって神社と寺院がそれぞれ別々に運営を行うようになりました。

鈴木九郎が中野長者と呼ばれるほどの大富豪となるきっかけとなったのが、当時宋の国で鋳造されていた正式な通貨で日本ではごく珍しくありがたいお金であった大観通宝(たいかんつうほう)でした。

あるときに馬を売って受け取ったお金がすべて大観通宝であったので、それをすべて浅草の観音様に納めたのが、鈴木九郎が富を得るきっかけとなりました。

成願寺の歴史 – 中野長者の寺 多宝山成願寺http://www.nakanojouganji.jp/rekisi.html