秦の始皇帝に仕えた方士・徐福の墓

徐福の墓 徐福公園
徐福の墓 徐福公園

昨日の和歌山大学南紀熊野サテライトの学部開放授業の新宮の町歩きで訪れた場所。

徐福公園。江戸時代に建てられた徐福の墓を中心に整備された公園です。

徐福は、紀元前3世紀の中国・秦の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)。始皇帝の命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年少女とさまざまな分野の技術者を引き連れて船出し、この熊野に上陸したと伝えられています。

熊野では、農耕、漁法、捕鯨、造船、紙すき、焼き物、土木、医薬などの新技術はすべて徐福から伝えられたものだとされてきました。徐福伝説 in 熊野

句碑
句碑 徐福公園

木の実植ゑ 徐福はこゝに 棲みつきし(山不鳴)

句碑の横に植えられた木は天台烏薬(てんだいうやく)。

伊賀流忍術の始祖は

久しぶりに折り紙で手裏剣を作りました。

伊賀流忍術の始祖は御色多由也(おいろたゆや)という人物だと伝えられます。

この人物はじつは、紀元前3世紀の中国・秦の始皇帝の命で不老不死の仙薬を求めて熊野に上陸した徐福(じょふく)その人、もしくはその従者の1人だと考えられています。

熊野に上陸した徐福一行が薬草を求めて伊賀に行き、そこで大陸の先進技術とともに忍術の基礎を伝えたのが伊賀流忍術の始まりなのだそうです。

熊野では徐福が農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すき、焼き物の製法や土木、医薬などの技術などの技術を伝えたとされますが、伊賀では加えて忍術も伝えたとされるのですね。

熊野には徐福一行の上陸地だとされる場所が2ヶ所あります。
三重県熊野市波田須町和歌山県新宮市阿須賀