新宿熊野ツアー 熊野ミニレクチャー

熊野にルーツを持つ”中野長者”鈴木九郎ゆかりの成願寺十二社熊野神社などをめぐったあと、角筈地域センターの会議室で熊野についてのミニレクチャーをさせていただきました。

内容は熊野の魅力について。話した内容の一部をここで紹介させたいただきますと、次のような感じです。

熊野の魅力っていろいろとあると思いますが、古くから神聖な土地だと考えられてきたということが一番の魅力だと私は思っています。

「み熊野」という言葉がありますが、これは、み+熊野で、「み」は神様のものを表わす接頭語です。

神様のものを表わす接頭語「み」が冠された地名は古代では、み熊野・み吉野・み越路の3つだけ。神聖な土地に「み」が冠されました。「み」にはその土地に対する畏敬や憧憬の念が込められています。

熊野には「日本第一大霊験所」の称号が与えられました。

日本で一番霊験あらたかな場所。神様にお祈りして、その祈願に対して与えられる御利益が日本一期待できる場所。

なんとなく伊勢が日本一の霊験所なのではと思っている人もいるかもしれません。たしかに伊勢は天皇家の祖先であるアマテラスオオミカミを祭る日本で最も貴いとされた神社ですが、しかしながら伊勢は霊験、御利益を期待できる場所ではありませんでした。

平安時代末期ころには伊勢の神様と熊野の神様は同じ神様だという考え方がありました。神様は同じだけれども、伊勢と熊野には違いがありました。伊勢は庶民が私的に個人的な願いをかけることを禁じました。それに対して熊野は庶民の願いを嫌わず受け入れました。

伊勢はそもそも天皇家のための神社なので、祈願できるのは天皇家の方々だけで、庶民が伊勢で個人的な祈願をすることはできません。

それに対して熊野は庶民の願いを聞き入れてくれて、しかもその神様は伊勢の神様と同じなので、御利益が日本一期待できたのです。

と、こんな感じのお話をしました。

「み熊野」にしろ「日本第一大霊験所」にしろ、すごい言葉だと思います。ミニレクチャーの続きはこちら

ミニレクチャーのあとは新宿西口思い出横丁にあるお店で懇親会♪

新宿熊野ツアー5 角筈地域センター

新宿熊野ツアーで訪れた場所5つ目は、角筈地域センター。ここの会議室で熊野についてのミニレクチャーを行いました。

ミニレクチャーについてはまた別のページで。こちらのページでは角筈(つのはず)について。

角筈という地名の由来には諸説あるようですが、熊野にルーツを持つ中野長者鈴木九郎にまつわる以下のような説もあります。

中野長者と呼ばれるほどの富豪となり、熊野神社を創建した鈴木九郎は在家のまま神仏をお祀りする修行者となりました。九郎は、修行者の持ち物である角筈と呼ばれる先端部に鹿の角をつけた杖を持って歩きました。そのため、この辺りの土地を「角筈」と呼ぶようになりました。

明治44年(1911年)の地図。写真中央辺りに熊野神社があります。大字角筈の地名も見えます。

角筈の地名は戦後徐々に失われていき、町名としての角筈は昭和53年(1978年)に廃止され、現在では角筈地域センター、角筈公園などにその名残を残しています。新宿区西新宿、歌舞伎町および新宿の一部がかつての角筈でした。

新宿熊野ツアー4 東京都庁舎

新宿熊野ツアーで訪れた場所4つ目は、十二社熊野神社(じゅうにそうくまのじんじゃ)の近くにある東京都庁舎。

展望室から中野長者鈴木九郎が開拓した土地を見下ろしました。

写真中央が鈴木九郎創建の十二社熊野神社

写真中央が鈴木九郎開基の成願寺

中野や新宿は、鈴木九郎という熊野にルーツを持つ人物が切り開いた場所なのです。

都庁舎は淀橋浄水場の跡地に立っています。淀橋という地名は神田川にかかる「淀橋」という名の橋に因みますが、その橋のかつての名は「姿見ずの橋」。

中野長者と呼ばれるほどの富豪になった鈴木九郎は、増える財産の保管に困って人夫を雇い、この橋を渡った向こうの人跡まれな場所に財産を埋め隠すようになった。鈴木九郎はその隠し場所を洩らされるのを恐れて、人夫を作業後に斬り殺しては、その死体を隠していた。橋を渡った人夫は原野に消え、二度と戻ってくることはなかった。そこで、その橋を人々は「姿見ずの橋」とも「おもかげ橋」とも呼んで恐れた、という話が伝わります。

「姿見ずの橋」が淀橋と改名されたのは江戸時代になってからのようです。