第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書『純粋な自然の贈与』

純粋な自然の贈与

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書から、熊楠や熊野について語られている文章を改めて確認しています。

1996年発行の『純粋な自然の贈与』には「すばらしい日本捕鯨」という文章が収められています。

「すばらしい日本捕鯨」では、太地の捕鯨について語られます。

純粋な自然の贈与

その思想の飛躍は、熊野の太地でおこった。せっかく発達したまま、無用のものとなりつつあった海の戦争技術は、捕鯨の技として、新しく生まれ変わったのだ。
(中沢新一『純粋な自然の贈与』せりか書房、43頁)

 

日本で発達した「勇魚」捕りの技の優美さは、ここから発生している。日本の漁師たちは、大きな鯨をしとめるためには、より大きな銛が必要であるとか、大きな銛を打ち込むための火器を利用した新しい武器が必要だ、などという欧米捕鯨的ながさつな技術思考に、頼ることがなかったのである。
(中沢新一『純粋な自然の贈与』せりか書房、45頁)

文庫化しています。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)
純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

太地の捕鯨についての『紀伊続風土記』での解説はこちら。
鯨漁(太地村):紀伊続風土記(現代語訳)

オオカミの再導入

オオカミ

先日の日本オオカミ協会紀州吉野支部の講演会の会場で購入した本。

頂点捕食者のいない生態系はいびつです。熊野でもここ7〜8年くらいで急速に自然の破壊が進んできました。増えすぎたシカのために森が再生できなくなってきています。生き残るのは有毒な植物くらい。ひじょうに怖い状況です。

オオカミの再導入ってアメリカやヨーロッパだからできたことで、日本ではどうなんだろうという不安も少しはあったのですが、イエローストーン国立公園公認ガイドのスティーブ・ブラウンさんの講演を聴いて、逆にアメリカでできたのだから日本でできないはずがないと思うようになりました。

イエローストーン周辺地域でのオオカミによる経済効果は年間約30億円だそうです。

大切なのは教育と価値観づくり。

熊野のオオカミについての南方熊楠の記録。熊楠の頃にはオオカミは日本ではすでに絶滅していたかもしれませんが、伝承を伝える人たちはまだ生きていました。

西牟婁郡二川村五村などで、狩人の山詞に、狼をお客さま、また山の神、兎を神子供と言う。狼が罠に捕らわれると、殺すどころではなく助けて去らせる。
南方熊楠「紀州州俗伝」(口語訳)

その他種々聞いたことどもから推測すると、紀州の山神に猿と狼とがあり、猿神は森林、狼神は狩猟を司ると信じたらしく、オコゼ魚を好むのは狼身の山神、自瀆を見るのを好むのは猿身の山神に限るらしい。
南方熊楠「山の神に就いて」(口語訳)

オオカミと共生する人間社会に再び戻していくべき時が来たのではないかと思います。

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書『ゲーテの耳』

ゲーテの耳

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書から、熊楠や熊野について語られている文章を改めて確認しています。

1992年発行の『ゲーテの耳』には「テレビをみるミナカタクマグス」と「救済する空間」。

「救済する空間」では、中世における熊野の信仰を取り上げています。

無でも有でもない、不思議なトポスに立って、熊野の神は一遍聖に念仏の本質を説く。そこは「機前」の空間として土着の神々の浄化力みなぎるところであり、「自然智」であり「本覚」でもある意識のスポンティニアスな運動がおこなわれているところでもある。そこは信心とか不信心とかをこえた、絶対的な安心の実現されるトポスだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、234-235頁)

一遍上人の熊野成道がこのように語られ、熊野については以下のように語られます。

熊野はケガレとなってあらわれてくる、そうした「過剰した自然」を自分のなかに受け入れ、浄化の力をほどこして、もとのバランスのとれた状態にもどす力をもっている、と考えられたのだ。……そんなことができるのは、自然が生成されてくるプロセスのさらに根源にひそんでいる、あの「機前」の空間のはらむラジカルな浄化力だけなのだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、235-236頁)

文庫化されています。

ゲーテの耳 (河出文庫―文芸コレクション)
ゲーテの耳 (河出文庫―文芸コレクション)

中沢新一先生のようには書けませんが、私も一遍上人の熊野成道については文章を書いていますので、お時間のあるときにでもお読みいただけたら嬉しいです。
一遍上人、熊野成道