大逆事件で処刑された新宮市名誉市民・大石誠之助の宅跡

大石誠之助宅跡
大石誠之助宅跡

昨日は和歌山大学南紀熊野サテライトの学部開放授業のお手伝いで新宮の町歩き。

写真は訪れた場所のひとつで、新宮市名誉市民の大石誠之助の宅跡。
大石誠之助は明治政府によるでっち上げの「大逆事件」で死刑に処された明治時代の新宮の医師。オレゴン州立大学医科卒。

われの郷里は紀州新宮。
渠の郷里もわれの町。

聞く、渠の郷里にして、わが郷里なる
紀州新宮の町は恐懼せりと。

佐藤春夫「愚者の死」

当時大学生であった佐藤春夫が大石誠之助の死を悼んで書いた詩。
渠は首領。ここでは大石誠之助のこと。大石誠之助は佐藤春夫の父の友人でした。

この「大逆事件」は明治政府が社会主義者たちを一網打尽にするために仕組んだ謀略でした。そのフレームアップ(でっち上げ)を行う舞台として熊野の中核的な都市であった新宮の町が選ばれました。熊野は危険な場所だと政府に認識されていたのでしょう。

大石誠之助宅の前には大石と甥の西村伊作が始めた洋食屋・太平洋食堂がありました。

大石は医師ですが、アメリカ留学時代にコックとして働いたことから西洋料理にも詳しく、コックとして新宮の町の庶民に西洋流の食生活の紹介もしました(太平洋食堂は1年ほどで閉店)。

大逆事件の犠牲者・成石平四郎の墓に戒名が刻まれていない理由

成石平四郎の墓

明治43年(1910年)5月以降、多数の社会主義者・無政府主義者たちが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙され、翌年24名が大逆罪により死刑または無期刑に処せられた「大逆事件」。

この「大逆事件」は、社会主義を恐れた政府が社会主義者たちを一網打尽にするために仕組んだ謀略であったというのが事の真相で、そのフレームアップ(でっち上げ)を行う舞台として熊野の中核的な都市であった新宮の町が選ばれました。

6人の熊野人が逮捕され、そのうちの2人が死刑、4人が無期懲役となりました。死刑となった1人に和歌山県請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎がいました。成石平四郎は処刑時28歳。妻子があり、一人娘はまだ2歳でした。

請川の成石家墓地に建てられた成石平四郎の墓には戒名が刻まれまず、「蛙聖成石平四郎之墓」と刻まれました。蛙聖は成石平四郎の号です。

それは国家的な大犯罪を犯した罪人だから周囲に気兼ねしたとかいうことではなく、成石平四郎自身の意志でした。このことについて作家・住井すゑは小説『橋のない川』のなかで以下のように記しています。

 年齢は、満二十八歳と五ヶ月。どんな思いだったか……と、こちらは呼吸がつまりますが、成石氏自身は、もうすべて悟り切っていたことでしょう。それは絞首台に上る直前、母に伝えてくれと獄吏に頼んだ「遺言」によっても明らかです。それには———“死んで極楽へ行くか、地獄へ行くか、自分は選ばない。不滅の霊魂は自然に行くところに行くものだから、それでよい。また“戒名”は要らない。墓標には、『蛙聖成石平四郎之墓』と記してほしい。”

 こう、しるしてあったそうです。そして辞世の句として、“行く先を 海とさだめし しずくかな”とあったそうです。

 深い山中の、木の葉、草の葉に宿る露の一しずく。その一しずくが寄り添うて“草清水”となり、“草清水”が寄り添うて渓流となり、やがて合流して熊野川となり、そして熊野灘に流れ込んで大洋となる……これが自然の理です。自然の理に、正も邪もありません。美も醜もありません。敢えて言うなら、それは地球の相(すがた)。宇宙の顔でしょうか。

 成石氏は刑死を前にして、このことを悟ったわけです。

住井すゑ『橋のない川 第七部』新潮文庫、383ページ

成石平四郎の墓に戒名が刻まれていないのは、平四郎自身の遺言によるものなのです。

大逆事件の犠牲者、成石平四郎とその兄勘三郎については『本宮町史 通史編』にかなりのページ数を割いて詳しく書かれています。大逆事件は熊野に大きな衝撃を与えました。

成石平四郎の墓

大逆事件で死刑となった、南方熊楠の知人

成石勘三郎・平四郎兄弟の墓、成石平四郎兄弟の碑

本日1月24日は大逆事件の関係者11人が処刑された日。明治44年(1911年)のことです。

熊野地方から大逆罪で逮捕されて死刑となったのは2人。新宮町(現・和歌山県新宮市新宮)の大石誠之助と、請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎。このうちの成石平四郎は南方熊楠の知人でした。

熊楠と成石平四郎が出会ったのは明治38年(1905年)7月28日。川島草堂という共通の友人の引き合わせでした。

川島氏、成石氏つれ来たり酒のみに行く。予は行かず。

『南方熊楠日記(3)』八坂書房

熊楠が39歳、成石平四郎が中央大学在籍中の22歳のときに2人は田辺で初めて出会いました。そしてその3年後の明治41年(1908年)11月に請川村の川湯温泉で2度目の出会いがあり、それから幾度かの書簡のやり取りが行われました。

判決が下された翌日、明治44年(1911)1月19日の熊楠の日記には次のように記されています。

昨日大逆事件言渡しあり。幸徳、管野以下二十四名死刑。(知人成石平四郎及びその兄勘三郎(予知らず)もあり、明治十三年と十五年生れなり。)他二人懲役。理由書二百枚ありし由鶴裁判長これを読めり。

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

成石平四郎と兄の勘三郎ともに死刑の判決。平四郎が28歳、勘三郎が30歳。成石勘三郎は若くして村会議員を務めていた人物ですが、熊楠とは面識がありませんでした。

24名に死刑判決が下されましたが、翌日に特赦で半分の12名が無期懲役に減刑されました。その結果、成石平四郎は死刑、勘三郎は無期懲役となりました。死刑判決から6日後、1月24日の熊楠の日記。

本日午前九時より午後に渉り幸徳伝次郎以下十二名死刑執行、成石平四郎もあり。

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

この大逆事件は当時でも国家によるフレームアップなのではないかと考えられ、アメリカやイギリスやフランスでは抗議運動が起こり、各国の日本大使館に抗議デモが押し寄せたために政府は判決、処刑を急がせたのでしょう。

翌25日の夜、川島草堂がやってきて、川島に宛てて出された成石平四郎最後のハガキを見せられ、熊楠はその文を紙片に写し取り、日記に貼り付けました。その後、30日の午後に熊楠のもとにも成石平四郎からのハガキが届きました。

午下成石平四郎死刑一月下旬の日付、一月二十八日牛込の消印ある葉書届く。
  和歌山県田辺町 南方熊楠先生と表宛し、
先生これまで眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。ただこの上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもっています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になったので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせこんな男は百まで生たって小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におったて往生は畳の上ときまらん。そう思うと、御念入の往生もありがたいです。右はちょっとこの世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎四十四年一月下旬

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

熊楠はどのような思いでこのハガキの文面を日記に書き写したのでしょうか。