終戦記念日の今日、熊野出身の禅僧、山本玄峰老師について

終戦記念日、日本の降伏を国民に伝えた日である今日は、熊野出身の禅僧・山本玄峰老師について。

山本玄峰老師は慶応2年、明治になる2年前に湯の峰で生まれました。
生誕地である湯の峰にはその遺徳を忍ぶ玄峰塔と刻まれた石塔が建っています。

然れども朕は時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。

玉音放送 – Wikipedia

昭和20年(1945年)8月15日正午に日本の降伏を伝えた玉音放送の一節ですが、
これの「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の文言は、玄峰老師が鈴木貫太郎首相に宛てて送った書簡から取って用いられたもののようです。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は禅宗の始祖の達磨大師の言葉で、この言葉を使って玄峰老師は終戦に向けて力を尽くしていた鈴木首相を励ましました。

日本が降伏する5ヶ月ほど前の3月25日に、玄峰老師は、その後4月7日に首相となる鈴木勘太郎と会談し、日本を守るためには一刻も早く無条件降伏することだと進言したといわれます。

もし仮に日本が4月中に降伏していたとしたら、横浜大空襲もなく台北大空襲もなく静岡大空襲もなく、沖縄戦での被害も小さくて済み、そして広島や長崎に原爆が投下されることもありませんでした。

戦争はどう終わらせるのかが大事ですが、「一億玉砕」や「一億総特攻」をスローガンとした当時の戦争指導者は戦争の終わらせ方について真剣に考えていなかったのでしょう。

また戦後の象徴天皇制も、天皇をどうするかで悩んでいた新憲法の制定委員会が玄峰老師の示唆を受け入れて作り出されたものでした。

日本人は天皇陛下万歳と言って死んでいく。天皇を除かなければ世界から認められない。しかし天皇を除けば日本国民がアメリカに反抗する。そうなればそれを口実にソ連が進駐してくる。そうした状況の中で天皇をどうしたらよいのか。

玄峰老師が示唆したのは、天皇は一切政治に関係しない、主権は日本国民にあり、天皇を国民全体の象徴とし、政治を担当する者は国民を象徴する天皇の気持ちを受けて政治を行うという形にしてはどうかということでした。

これは敗戦直後の時点での天皇をどうするかの解決方法としてはよい答えであったと思います。もっともっと長い目で見たらどうなのかはわかりませんが、あの時点の短期的な視点で見ればおそらくベストの答えであったのではないかと。

しかしながら、象徴天皇制は皇室や日本国民に向けて玄峰老師が与えた公案、難解な課題であるようにも思います。

平成の天皇陛下は即位したときからずっと象徴としての天皇のあり方を模索し続けてこられたことと思います。

平成の天皇陛下は国民全体に寄り添うことで、社会的に強い立場にいる人々にだけでなく弱い立場にいる人々、苦しんでいる人々にも心を寄せることで、日本国および日本国民統合の象徴としての天皇の務めを果たそうとされておられたのだと思います。

今年5月1日に即位された新天皇陛下は「即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)」で次のように述べられました。

常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。

即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば:天皇陛下のおことば – 宮内庁

山本玄峰老師は昭和36年(1961年)6月3日に96歳で亡くなりました。湯の峰近くの渡瀬という地区にお墓があります。

また命日の6月3日には毎年、湯の峰の玄峰塔の前で玄峰老師頌徳会により毎歳忌法要法要が営まれています。玄峰塔に刻まれた文字は玄峰老師自らが亡くなる2週間前に書かれた書を写し彫ったものです。

ハンセン病患者と熊野

国が続けたハンセン病患者の強制隔離政策によって家族も差別を受けたとして家族らが国に損害賠償を求めた訴訟で、政府は先月7月12日、内閣総理大臣談話と政府声明を発表して、国の責任を認め、賠償を命じた熊本地裁判決を控訴をせず受け入れることを表明しました。

ハンセン病患者への強制隔離政策を違憲と断じた熊本地裁判決が2001年(平成13年)に確定し、元患者には補償がなされましたが、その救済がようやく家族にまで広げられることになりました。

ハンセン病の治療法が確立して1950年代から外来治療が世界の主流となっても、日本はなぜか強制隔離政策を続けました。日本がその政策をやめたのは1996年(平成8年)のことです。

ハンセン病患者や元患者、その家族は今なお差別偏見に苦しまれていますが、今後、国をあげての取り組みにより差別偏見がなくなることを願っています。

熊野信仰が盛んであった中世においても差別偏見はあり、ハンセン病は前世の悪業の報いでかかる病気だとされ、ハンセン病患者は最も穢れた存在とみなされていました。

しかし、ただ忌み嫌われて排除されたというのではなく、中世においては、最も穢れた存在であるがゆえにハンセン病患者に施しを与えることは神仏の御心にかない、御利益を得ることができる善行であると考えられました。

熊野の聖性を人々に伝える物語『小栗判官』の中で「餓鬼阿弥」として蘇生した小栗判官の姿はハンセン病患者をモデルとしたものであろうと思われます。ハンセン病は餓鬼病みと言われていました。

熊野はハンセン病患者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、熊野本宮の湯の峰温泉には、大勢のハンセン病者が治癒の奇跡を求めてやってきました。

「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」
ハンセン病患者に救いの手を差し伸べることは、千人、万人の僧に供養してもらうのに等しいのだと。

小栗判官の物語にあるような一般の人々の手助けによって、体の不自由なハンセン病患者も熊野を詣でることができたのでしょう。

昭和の初めまで湯の峰温泉にはハンセン病患者が利用する入浴施設があり、ハンセン病患者ばかりを泊める宿屋もありました。

すべてのハンセン病患者が強制的に隔離されるようになったのは1931年(昭和6年)に癩予防法が施行されてからのこと。各県の衛生当局と警察がハンセン病患者をしらみつぶしに探しだして療養所という名の収容所に強制的に送りこみ、隔離しました。

国がハンセン病患者を強制的に隔離する政策をとったことで、ハンセン病患者やその家族への差別は一層ひどくなりました。

湯の峰温泉からはハンセン病患者が利用する入浴施設も消え、ハンセン病患者のための宿屋もなくなりました。