本日2月25日は茂吉忌、斎藤茂吉は全く前途の光明を失っていたときに熊野を詣で

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斎藤茂吉 (明治15年-昭和28年) 田村茂(明治42年-昭和62年) – 文藝春秋新社 現代日本の百人(1953年刊), パブリック・ドメイン, リンクによる

本日2月25日は茂吉忌。斎藤茂吉(さいとう もきち)の命日。
斎藤茂吉は近代短歌史上に重要な位置を占める歌人で、精神科医。
1953年(昭和28年)2月25日に斎藤茂吉は亡くなりました。

斎藤茂吉は大正14年(1926)8月、斎藤茂吉44歳の折に熊野を訪れ、那智から大雲取越・小雲取越を越えて本宮まで歩いています。

この山越は僕にとっても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによった。しかも偶然二人の遍路に会って随分と慰安を得た。なぜかというに僕は昨冬、 火難に遭って以来、全く前途の光明を失っていたからである。

斎藤茂吉「遍路」

その前年の1924年(大正13年)まで斎藤茂吉は精神病学研究のためヨーロッパに留学しており、ミュンヘン大学で博士号を取得し、10月に帰国の途につきました。希望を抱いての帰国であったでしょうが、その船上で茂吉は養父・斎藤紀一の経営する青山脳病院が全焼したとの報せを受けます。留学先で買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失しました。

1925年(大正14年)1月に帰国。病院再建に奔走するも、茂吉は「全く前途の光明を失って」いました。そのような精神状態で熊野を詣で、そして翌1926年(大正15年)4月に青山脳病院を養父とともに復興させました。

熊野は蘇りの聖地といわれますが、斎藤茂吉はまさにこの熊野への旅で蘇ったのでしょう。