スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県田辺市本宮町の状況

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県田辺市本宮町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

三里村(現・田辺市本宮町)の状況

三里村の感冒

東郡三里村方面も近頃悪性感冒襲来し、別項の如く中村医師もこれがため逝去せしが何分の交通不便の地とて医師を迎うるも容易ならず、売薬も品切れとなり、蚯蚓や牛の角?などを服用しつつただ拱手(きょうしゅ:手をこまねいて何もしないでいること)死を待つの状態にて全村悲惨の状態紙筆の外なり。これ畢竟道路完全ならざる結果なり。吾輩は今更ながら県政の不公平を悲しまざるを得ずと某氏の近信に見えたり

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

三里村では医師がスペインインフルエンザに罹患して死亡。三里村の患者はただ手をこまねいて死を待つだけという極めて悲惨な状態にありました。


三里郷(現・和歌山県田辺市本宮町/新宮市熊野川町):紀伊続風土記(現代語訳)
この郷はもと本宮の神領で三里の名は社家の古い記録に見られる(本宮社家の古伝の記録に源将軍頼朝卿が三敷屋の地を本宮に寄付せられたとある)。三里と名づけたのは、その元となった村が3つであることからいうのであろう。慶長検地帳に三里郷と書いてある。

スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県すさみ町の状況

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県すさみ町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

江住村(現・すさみ町江住)の状況

牟婁日誌

28日(晴)
江住村城国手(こくしゅ:医師)の近信にいわく「当村も2、3日前より悪性感冒侵入、なかなか猛烈の模様に候」とある。例のきんきり馬で、東西御奔走の事と御察し申す。(後略)

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

周参見村(現・すさみ町周参見)の状況

周参見の祈祷

周参見村もご多聞に漏れず悪性感冒にて至る所苦しめられつつあり。吾が平松区や小泊にても数十名の患者あり。何様今もって病原も知れざる程の事にて医師の薬も存外当てにならず、そのお医者様さえ新聞で見るとバタバタ斃れる様子ゆえ、この上は神仏の加護を乞うの外なしとの趣意か太間地の観音寺福田恵明師は率先して??念仏を唱えつつ風雨を厭わず村内を廻り、その結願には同寺において護摩供を修し護摩札を各戸に施与しつつあるが、そのお陰にや平松小泊は重患者出でず幸い1名の死者もなしという。

また同地観音講より謝礼として封金を贈りしも福田師はこれを受けず、よって仏前に水引一掛を奉納したりという。病気に際し医薬を服せず祈祷にのみ依るは感心し難きも、今回の如く適効薬なき場合は如何ともしがたし。医学博士達の感想如何承りたきものなり。(同地通信)

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

江住浦(現・和歌山県西牟婁郡すさみ町江住):紀伊続風土記(現代語訳)
見老津浦の東南、小名江須ノ川を経て27町にある。東の方は里野浦に至って大辺路街道で海に浜す。

周参見浦(現・和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見):紀伊続風土記(現代語訳)
東に周参見川を受け、北に太間川を受け、両渓合流の所に当たって、西南は海に面する地である。渓間に山脚が雑出して平田の地は一所に集まらない。故に村居は諸谷の間に散在して小名を称するものが最も多い。

スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県那智勝浦町の状況

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県那智勝浦町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

那智村(現・那智勝浦町)の状況

那智の感冒

東郡那智村にては4,200の人口中7割まで悪性感冒に冒され、長雄医院看護婦洞口タミヨ同病にて死亡し、院主長雄亮太郎氏も伝染??重態のよし。大字天満に宮本医師あるのみにて全村に往診し切れず、売薬も品切れにて村民は田畑にて蚯蚓を掘り出しこれを煎じて飲むという始末にてその悲惨目も当てられずという。

勝浦巡査派出所の急報にて新宮町より寺本医師応援出張したりとの事なるが、新宮町とてもこの程来24,000の人口中約17,000〜18,000の患者あり。中には夫妻枕を並べて死亡し死者をそのままのして4日間も埋葬するを得ざるもありしという。

ただし目下の状態にては海岸線はようやく下火となり、もっぱら山間部を荒らしつつあるが如し。交通不便と医師無きため一層の困難ならんと察せらる。

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

那智荘(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町):紀伊続風土記(現代語訳)
那智荘全12ヶ村、東は佐野荘及び浅里郷に接し、西は色川郷と隣り合い、南は大田荘と界し、北は那智山と接する。

天満村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満):紀伊続風土記(現代語訳)
駿田峠を村堺とする。この山峰は岩石硝立して屏風を立てたよう。村の北東は浜ノ宮・川関の2村と川を堺とし、南東の方は勝浦村に至るまでの地、みな当村の領で平田が多い。村居は一筋の町をなし商戸もあって田舎の形ではない。天満の名は産土神より起こった。

勝浦村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町勝浦):紀伊続風土記(現代語訳)
天満村の東南14町にある。勝浦村・天満村・浜ノ宮村の3ヶ村はみな海に瀕して東に向かったひとつの海湾である。この海湾を吹浦という。勝浦村はその南の端の出崎にあって、また南にひとつの小さな海湾があって入津湊という。この地は海の中に突き出ていて南北両面に海を受けている。