熊野地方唯一の前方後円墳

和歌山県那智勝浦町下里にある下里古墳。
熊野地方唯一の前方後円墳です。

前方部はすでに削り取られていて円墳のように見えます。

築造時期は4世紀末〜5世紀初頭(古墳時代中期)頃と推定されます。その頃、下里の辺りが熊野国(大化の改新後に紀伊国に併合)の中心的な場所であったのでしょう。

前方後円墳は、地方の首長たちがヤマト王権と同盟関係を結んだり支配されたりした結果、全国に普及した古墳の形だと考えられるので、「地理的に大和の近くであるにもかかわらず、時期的に前方後円墳を構築するのが遅い。容易に同盟しなかったのでは」との説もあります。

熊野には丹敷戸畔(ニシキトベ)という女性の首長がいて、神武の軍勢と戦ったとされますし、熊野の人々はヤマト王権との同盟を長らく拒んだのかもしれません。

下里古墳に葬られているのは丹敷戸畔より後の熊野国の首長かな? その首長は男性だったのか女性だったのか。ニシキトベの伝承を残す地域としては女性首長が被葬者であってほしいなと思います。

那智勝浦町文化協会創立20周年記念の文化講演会「下里古墳から分かること」、10月14日(日)、那智勝浦町体育文化会館にて開催されます。

紀伊半島に9ヶ所あった原発立地候補地

6年ほど前(2012.6.30)にfacebookページに書いた文章が最近シェアされていたので、こちらのブログでも読んでいただけるように少し加筆して転載します。

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  • 電力需要を調整し、ピーク時の電力需要を下げる。
  • 太陽光発電などの自然エネルギーを増やし原発依存から脱する。
  • 廃棄物処理、廃炉費用も含め、原子力発電のコストを再計算する。
  • 設備、人件費などに一定の利潤を加えて電気料金を決める総括原価方式を見直す。

上記は、汐見文隆監修・「脱原発わかやま」編集委員会編『原発を拒み続けた和歌山の記録』寿郎社、146ページからの引用。
http://mediamarker.net/u/mikumano/?asin=4902269481

今から30年以上前、1980年前後に原発設置に反対した和歌山県の住民たちが主張していた紀伊半島への原発新設不要論の一部です。

和歌山県には原発立地候補地が5ヶ所ありました。三重県には4ヶ所。和歌山県那智勝浦町浦神、古座町荒船、日置川町口吸、日高町阿尾、日高町小浦、三重県紀勢町・南島町の芦浜、紀伊長島町城ノ浜、海山町の大白浜、熊野市井内浦。

紀伊半島に合わせて9ヶ所の候補地がありましたが、そのことごとくを住民たちは拒みました。

昨夜、首相官邸前で関西電力大飯原発の再起動に反対する市民らの抗議行動がありました。参加者は主催者発表で15万人。

いま国を動かしている人達は3.11以前の状態に戻したいようですが、あれだけの事故を起こした後ではもう戻れません。

日本は変わらなきゃ。

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玄峰老師の言葉「和して同ぜずでないとほんとうの仕事はできない」

日比谷図書文化館さんの日比谷カレッジで講師を務めさせていただいたときにオススメした書籍3冊のうちの1冊が、山本玄峰老師の著書『無門関提唱』(大法輪閣、1960年10月)でした。

山本玄峰老師は南方熊楠より1歳年上の熊野湯の峰出身の禅僧。時の総理の相談役を務め、太平洋戦争終結に尽力し、また天皇を国家の象徴とするよう示唆するなどした熊野が誇る偉人です。

『無門関提唱』から山本玄峰老師の言葉を紹介します。

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せずという。君子は別々のように見えておるけれども、きちんと物の道理を弁えてる。ところが小人はいかにも仲よくしているようにして、おべんちゃらを上手に使っていても、箔がはげる。君子は言葉に現わさなくても、社会の苦しみを見ればほんとうに苦しみ、人の苦しみを見てもほんとうに自分の苦しみと感ずる。和して同ぜずでないとほんとうの仕事はできない。
(山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、180頁)

和して同ぜずでないとほんとうの仕事はできない。
『無門関提唱』には素晴らしい言葉がたくさん散りばめられていますが、この言葉もいいなあと思います。

オススメした書籍の残りの2冊は、松原右樹『松原右樹遺稿 熊野の神々の風景』(松原右樹遺稿刊行会、2012年10月)と、梅原猛『日本の原郷 熊野』(とんぼの本 新潮社、1990年1月)。