スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県すさみ町の状況

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県すさみ町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

江住村(現・すさみ町江住)の状況

牟婁日誌

28日(晴)
江住村城国手(こくしゅ:医師)の近信にいわく「当村も2、3日前より悪性感冒侵入、なかなか猛烈の模様に候」とある。例のきんきり馬で、東西御奔走の事と御察し申す。(後略)

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

周参見村(現・すさみ町周参見)の状況

周参見の祈祷

周参見村もご多聞に漏れず悪性感冒にて至る所苦しめられつつあり。吾が平松区や小泊にても数十名の患者あり。何様今もって病原も知れざる程の事にて医師の薬も存外当てにならず、そのお医者様さえ新聞で見るとバタバタ斃れる様子ゆえ、この上は神仏の加護を乞うの外なしとの趣意か太間地の観音寺福田恵明師は率先して??念仏を唱えつつ風雨を厭わず村内を廻り、その結願には同寺において護摩供を修し護摩札を各戸に施与しつつあるが、そのお陰にや平松小泊は重患者出でず幸い1名の死者もなしという。

また同地観音講より謝礼として封金を贈りしも福田師はこれを受けず、よって仏前に水引一掛を奉納したりという。病気に際し医薬を服せず祈祷にのみ依るは感心し難きも、今回の如く適効薬なき場合は如何ともしがたし。医学博士達の感想如何承りたきものなり。(同地通信)

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

江住浦(現・和歌山県西牟婁郡すさみ町江住):紀伊続風土記(現代語訳)
見老津浦の東南、小名江須ノ川を経て27町にある。東の方は里野浦に至って大辺路街道で海に浜す。

周参見浦(現・和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見):紀伊続風土記(現代語訳)
東に周参見川を受け、北に太間川を受け、両渓合流の所に当たって、西南は海に面する地である。渓間に山脚が雑出して平田の地は一所に集まらない。故に村居は諸谷の間に散在して小名を称するものが最も多い。

スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県那智勝浦町の状況

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県那智勝浦町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

那智村(現・那智勝浦町)の状況

那智の感冒

東郡那智村にては4,200の人口中7割まで悪性感冒に冒され、長雄医院看護婦洞口タミヨ同病にて死亡し、院主長雄亮太郎氏も伝染??重態のよし。大字天満に宮本医師あるのみにて全村に往診し切れず、売薬も品切れにて村民は田畑にて蚯蚓を掘り出しこれを煎じて飲むという始末にてその悲惨目も当てられずという。

勝浦巡査派出所の急報にて新宮町より寺本医師応援出張したりとの事なるが、新宮町とてもこの程来24,000の人口中約17,000〜18,000の患者あり。中には夫妻枕を並べて死亡し死者をそのままのして4日間も埋葬するを得ざるもありしという。

ただし目下の状態にては海岸線はようやく下火となり、もっぱら山間部を荒らしつつあるが如し。交通不便と医師無きため一層の困難ならんと察せらる。

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

那智荘(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町):紀伊続風土記(現代語訳)
那智荘全12ヶ村、東は佐野荘及び浅里郷に接し、西は色川郷と隣り合い、南は大田荘と界し、北は那智山と接する。

天満村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満):紀伊続風土記(現代語訳)
駿田峠を村堺とする。この山峰は岩石硝立して屏風を立てたよう。村の北東は浜ノ宮・川関の2村と川を堺とし、南東の方は勝浦村に至るまでの地、みな当村の領で平田が多い。村居は一筋の町をなし商戸もあって田舎の形ではない。天満の名は産土神より起こった。

勝浦村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町勝浦):紀伊続風土記(現代語訳)
天満村の東南14町にある。勝浦村・天満村・浜ノ宮村の3ヶ村はみな海に瀕して東に向かったひとつの海湾である。この海湾を吹浦という。勝浦村はその南の端の出崎にあって、また南にひとつの小さな海湾があって入津湊という。この地は海の中に突き出ていて南北両面に海を受けている。

スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県白浜町の状況

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県白浜町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

瀬戸村(現・白浜町)の状況

各地の感冒

▲瀬戸
目下弊村も悪性感冒流行各戸1、2名ずつはたいてい臥床、すでに?名死亡、数名の重症患者これありやにて医師もいちいち往診し切れざる状態なり。(24日発)

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

東富田村(現・白浜町)の状況

大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』

東富田の感冒

悪性感冒今や山間部を襲撃して本郡にても栗栖川辺大流行の由なるがなお富田川筋では東富田最も猛烈にして中にも血深字が激しく毎日同字にて2、3人、全村にも5、6人の死者を出しつつありとは悲惨と言うべし。

大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』

鉛山・南富田村(現・白浜町)の状況

その後の感冒

▲鉛山
各戸に2、3名の患者あり。医者も罹病。病人はみなみな大困艱。

▲南富田
大流行。学校は4日から休校。

大正7年(1918年)12月13日付『牟婁新報』

瀬戸村(現・和歌山県西牟婁郡白浜町):紀伊続風土記(現代語訳)
この地は牟婁ノ温泉の地で、古は別に大字がなかった。その地形は古海湾の北の端中間南北に切れて島があって別に迫門(せと)をなしていた(島はすなわち今の遠見番所及び御殿跡の地である)。海潮が退いて迫門が陸となり島とひとつとなる。人民が初めてこの地に村居をしてから迫門の名がこの地の大字となり文字を瀬戸と改めた。

鉛山村(現・和歌山県西牟婁郡白浜町):紀伊続風土記(現代語訳)
瀬戸海湾の内、白良浜より西南、温泉のある所が鉛山の領地である。村名は鉛を掘ったことから起こる。『続日本記』に大宝3年5月紀伊国阿提飯高牟婁郡に銀を献上させるとある。当郡にて銀が古く出た地は詳らかでない。この地は古に顕われた地で鉛の出た地なので銀の出たのはこの地のことであろう。

東富田村
明治22年(1889年)、十九淵村・富田村・朝来帰村の区域をもって発足。現在の白浜町の北西部。

南富田村
明治22年(1889年)、栄村・中村の区域をもって発足。現在の白浜町の南部。