院政時代の熊野本宮大社の領地は東京ドーム907個分!

白河法皇が院政を行なっていた1128年に書かれた記録(1535年書写「本宮文書第三号」)によると、熊野本宮大社の領地の面積は3,570町。

これは計算してみると東京ドーム907個分。

古代から中世後期にかけての1町の面積は約109メートル四方で、約11,881平方メートル。したがって3,570町は約42,415,170平方メートル。

東京ドームの面積が46,755平方メートルなので割ると907.17…。当時の熊野本宮大社の領地の面積はおよそ東京ドーム907個分に相当するのです。

しかもその領地のなかには476もの寺がありました。

今の熊野本宮大社とは全然スケールが違います。

上皇が熱心に通われた院政時代の熊野本宮は本当にすごかったのだと改めて思い知らされます。

熊野本宮大社の主祭神がスサノオとされたのはいつから?

神社のご祭神は時代により変わったり、付け加えられたりするものですが、熊野本宮大社の主祭神・家津御子大神(ケツミコノオオカミ)がスサノオノミコトとされたのはいつからなのでしょうか。

江戸時代中期には家津御子大神は国常立尊(クニノトコタチノミコト)だとされていますので、本宮の主祭神がスサノオとされたのはたぶん江戸時代後期だろうとなんとなく思っていますが、実際のところわかりません。

国常立尊は『日本書紀』においては天地開闢とともに出現しました。イザナミやイザナギよりも前に出現した、最初の、根源的な神さまです。

平安時代末から鎌倉時代に成立したと見られる熊野修験の根本経典ともいうべき『大峰縁起』では、家都御子大神の前世はインドの国王である慈悲大顕王(じひだいけんおう)で、熊野速玉大神はその王子、熊野夫須美大神は王女であるとされます。ここでは速玉大神と夫須美大神は家都御子大神の子どもです。

また熊野の神さまの前世を語る室町時代の物語『熊野の本地』では家都御子大神は喜見上人という僧で、熊野速玉大神は古代インドの摩訶陀国の善財王(ぜんざいおう)であり、熊野夫須美大神はその妃、若一王子が王子とされます。熊野速玉大神と熊野夫須美大神は夫婦で、家都御子大神は2人の師のような立場にあります。

家都御子大神に記紀神話に登場する神さまを当てはめるとき、イザナギやイザナミよりも先に生まれた最初の神さま・国常立尊こそが家都御子大神には相応しいと考えられたのではないかと思われます。

惣建図 熊野本宮大社蔵(和歌山県立博物館『世界遺産登録記念特別展 熊野本宮大社と熊野古道』170頁)

熊野本宮大社蔵「惣建図 」は明治14年(1881年)に作成された熊野本宮大社の図。

この図の境内の右上隅のほうをクローズアップすると、2つの建物があり、その右手の建物には「須戔嗚社」と名前が付されています。

主祭神がスサノオであればスサノオをお祀りする神社を境内に別に設けてお祀りする必要はないように思いますが、もしかしたら江戸時代末期や明治初期にもまだスサノオが主祭神にはなっていなかったのかもしれません。

家津御子大神はスサノオの別名であるとの説は江戸時代末期成立の紀伊国の地誌『紀伊続風土記』に記されていますが。

よくわかりません。

熊野三山の主神について

今年2021年の熊野本宮大社例大祭・本宮祭で授かった挑花

今年2021年の熊野本宮大社例大祭・本宮祭で授かった挑花(ちょうばな)。

本宮祭では挑花(ちょうばな)と呼ばれる菊の造花を豊穣の母神・熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)に奉ります。

挑の字には「掲げる」「担ぐ」などの意味があり、15日の渡御祭では挑花を台に飾りつけ肩に担いで掲げて渡御します。

挑花台

例年であれば挑花は御田祭の後に行われる餅まきで赤い餅を拾った参列者に赤い餅と引き換えで授けられます。今年は餅まきがなく、例年とは異なる形で参列者に授けられました。

挑花

この花を授かれば、1年災難なく過ごせ豊作であると伝えられます。

コロナ禍が続きますが、災難なく過ごせますように。