本日3月14日は熊野出身の禅僧・山本玄峰老師の誕生日

本日3月14日は熊野出身の禅僧・山本玄峰老師の誕生日。日本の近代史に大きな影響を与えた熊野が誇る偉人です。山本玄峰は慶応2年1月28日(1866年3月14日)に湯の峰で生まれました。

山本玄峰老師は戦争終結に向けて力を尽くしていた鈴木首相を禅宗の始祖の達磨大師の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉を使って、励ましました。

以前、山本玄峰老師について少しお話した動画があります。4分ほどの動画です。ぜひご覧ください。

『神道集』所収の「熊野権現の事」では、垂仁天皇のときに諸国に大疫病が起こり、3742社もの神社を国々に祭り置かれたと

各地の有名な神社の神々の御由緒譚を集めた『神道集』という説話集があります。南北朝時代に成立したと考えられるこの説話集にはもちろん熊野の神様の御由緒譚も収められています。

『神道集』の熊野の神様の御由緒譚「熊野権現の事」によると、熊野三所権現は第7代天皇・孝霊天皇のときに祭られるようになったとされます。
熊野権現の事(熊野の本地)現代語訳5

その後、第10代天皇・崇神天皇のときに若一王子(にゃくいちおうじ)が現れ、第11代天皇・垂仁天皇のときに熊野十二所権現が勢揃いし、熊野への道沿いに諸王子社が現れたとされます。そして、その垂仁天皇のとき、諸国に大疫病が起こり、帝は大いに驚かれて3742社もの神社を国々に祭り置かれたと「熊野権現の事」では語られます。
熊野権現の事(熊野の本地)現代語訳6

垂仁天皇が置いたと語られる3742社の中に熊野十二所権現のうちの九所や諸王子社が含められているのかはわかりませんが、わざわざ熊野の神様の御由緒譚の中でこのように語られたのは、疫病退散も熊野の神様が与えるご利益なのだと考えられていたからなのでしょう。

熊野参詣をされた方々に御加護がありますように。

南方熊楠が英訳した『方丈記』のCHAPTER 4 をGoogle翻訳で日本語に、福原遷都

南方熊楠が英訳した『方丈記』、”A Japanese Thoreau of the Twelfth Century”のCHAPTER 4 をGoogle翻訳で日本語に。

繰り返しになりますが、同じ年に水のない[6]月に、すべての予想に反して、突然資本の変更が行われました。京都は、ミカド・サガ[A.D. 810-823]。

この除去の十分な理由がなかったので、人々は言葉以上に不満でした。しかし、彼らの苦情は役に立たず、ミカドと彼の裁判所は摂津の浪花に身を投じた。それでは、もし彼が世界のあり方を考えたなら、人里離れた街に留まることを誰が気にするだろうか?しかし、地位と地位を追い求め、偉大な男性の好意を求愛した人々は、たった1日でも、仲間を追い払うために最大限努力しました。家を失い、希望を失い、世界が無視した他の人たちは、悲しげに背後にとどまりました。屋根の高さで互いに競い合った人々の大邸宅[すなわち富とショーで]破滅し、家屋は破壊され、部品はYから新しい都市へと流れ落ち、庭園は目に見えて単なる畑に変わった。男性の性格さえ変わり、馬と馬具だけが考えられ、牛が引く馬車を使用するものはありませんでした。南と西の土地の需要が増加し、北と東の州の資産の価値が低下しました。

“A Japanese Thoreau of the Twelfth Century” CHAPTER 4 からの自動翻訳

福原遷都。治承4年(1180年)6月、平清盛によって都が京から福原(現在の兵庫県神戸市)に遷されました。