昭和天皇の田辺行幸の目的は主として神島と南方熊楠

昭和4年(1929)6月1日、南方熊楠は田辺湾に浮かぶ神様の島、神島(かしま)で昭和天皇に拝謁しました。そのときの感激を熊楠は「この島にて小生のために特に脱帽遊ばされ候ことまことに恐懼の至り」と記しています。

変形菌学者でもあった若き昭和天皇が、日本における変形菌研究の先駆者であった熊楠から講義を受けたいと希望されて実現させた熊楠のご進講(天皇や貴人に学問の講義をすること)でした。熊楠が数え年で63歳、昭和天皇が29歳のときのことでした。

ロンドン時代に親交のあった海軍軍令部長の加藤寛治大将からご進講前に熊楠に送られてきた手紙には「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある由」と書かれていたとのことで、天皇が関西行幸のなかで田辺湾に立ち寄られたのは、神島での変形菌採集と熊楠の講義が主な目的でした。

熊楠は、昭和天皇が会いたくて会いに来られた、そういうとてつもない人物だったのでした。

神島の動画をYouTubeに公開しました。神島についてもう少し知りたいという方はぜひご覧ください。
南方熊楠の神社合祀反対運動のシンボル的な場所、神島。田辺湾を鎮護する神様の島。【日本語字幕あり】

昨一日進講事すみ候。神島へは畠島より前に御臨幸遊ばされ候て、この島にて小生のために特に脱帽遊ばされ候ことまことに恐懼の至り、御召艦にては三十五分ばかり進講、粘菌百十点献上、貴下の集品は五点ありし。

上松蓊宛書簡、昭和四年六月二日付『南方熊楠全集』九巻、平凡社

聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある由

上松蓊宛書簡、昭和四年五月十九日付『南方熊楠全集』九巻、平凡社

なぜ神島の神様は竜神、蛇神とされるのか

彎珠(わんじゅ、ハカマカズラ)、撮影場所は江須崎島

南方熊楠の神社合祀反対運動のシンボル的な場所であり、国の天然記念物で、国の名勝「南方曼陀羅の風景地」の一部である神島。

神島の神様は大晦日の夜に竜神の姿で現れて海を渡ると信じられていました。目指す先は田辺市秋津の竜神山でしょうか。

神島の神様は竜神山の神様と同体だと伝えられます。竜神山の神様も竜神。神島沖に現れた竜神が立ちのぼり、いったん闘雞神社の森に留まり、その後、竜神山に鎮まったと伝えられます。

あるいは蛇神とも言われます。普段は蛇の姿でいて、ときおり竜神の姿になって空を飛ぶと考えられたのかもしれません。

神島の神様が竜神、あるいは蛇神とされるのはなぜか。

それは神島に生える彎珠(わんじゅ)という蔓植物のためであろう、と南方熊楠は考えました。

彎珠は今ではハカマカズラと呼ばれます。熱帯系の蔓植物で沖縄では普通に見られる植物ですが、本州ではたいへん珍しく、本州での分布は紀伊半島南部の西側の海岸線に数ヶ所点在するのみです。

森の中で木から木にかかる彎珠のつるは大蛇のように見えます。ひとり森の中にいると気味悪く思うほどだと熊楠は述べています。

神島の神様が竜神、蛇神とされたのは彎珠(ハカマカズラ)が神島に生えているから、というのは神島の森の中に入った者が実感することなのでしょう。

神島の神様はとくに彎珠を大切にするとされました。

昭和天皇に希望されて熊楠が生物学のご進講(天皇や貴人に学問の講義をすること)をしたとき、時間は25分と決められていましたが、延長を求められ、5分ほど時間を超過して講義が行われました。その延長時間のなかで熊楠は、神島での彎珠の保護についても語ったそうです。

神島について紹介する4分ほどの動画を作りました。ぜひご覧ください。

……海上鎮護の霊祗として、本村は勿論近隣町村民の尊崇はなはだ厚く、除夜にその神竜身を現じて海を渡るよう信じたり。

「神島の調査報告」『南方熊楠全集』十巻、平凡社

この島は千古、人が蛇神をおそれて住まざりし所なり。自生の楝あり。また海潮のかかる所に生ずる塩生の苔 scale-moss あり。奇体な島なり。

松村任三宛書簡、明治四十四年八月二十九日付『南方熊楠全集』七巻、平凡社

神島の植物さまざまだが、なかんずく名高いのは彎珠だ。もと槵珠と書いたらしく、槵はムクロジで、共に数珠にするから謬り称えたらしい。……豆科のバウヒニア属の木質の藤で、喬木によじ登り数丈に達し、終にその木を倒す、林中の幹から幹に伸び渡った形、大蛇のごとし。むかし、この神島の林に入って蛇というを禁じ、一言でも蛇といえば木がたちまち蛇に見えると言ったは、本来この藤が蛇に似たからだろう。

「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』六巻、平凡社

 古伝に、神島に毒虫あるも人を害せず、これ島神の請願による。
 故に夏期に熊野に詣ずる者、多く島神に祈り彎珠一粒を申し受け、これを佩びて悪気と毒虫を避けしという。宇井縫蔵の『紀州植物誌』にいわく、神島産の彎珠は、幹の最も太きもの周囲一尺ばかり、蜿蜒として長蛇のごとく、鬱蒼たる樹間を縫うて繁茂せり、と。これよく形容せるの辞、単独林下に在りてはいと気味悪く覚ゆるほどなり。したがって古く島神を竜蛇身を具え悪気毒虫を制すと信ぜしなるべし。

「神島の調査報告」『南方熊楠全集』十巻、平凡社

彎珠の用途は、ただ念珠を作るだけで、欧米でいわゆるシー・ビーンス(海豆)を種々の装飾や耳環の鎮に使うごときに至らず。数珠商人にきいたは、他所の産は種子の表裏共に多少の凹凸ありて下品なり、神島のもののみ表裏に凹凸なく滑らかで上品だ、と。これは神島の彎珠は、神が惜しむとて滅多に採らず、久しく木に付いて十分成熟した後、腐葉土に埋もれて滑らかになったのだ。しかるに、近来急いで蚤く採るから、神島また凹凸不斉なもの多し。

「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』六巻、平凡社

熊野各地にかつてあった森そのものをお祀りする神社、神森。神島も江戸時代には神島明神森でした。

明治末期の神社合祀で神社は潰されたものの、南方熊楠や地域の住民たちの抵抗により森は守ることができた神島(かしま)。

神島の森は江戸時代には神島明神森と呼ばれました。紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』の新庄村の項には次のように記されています(私による現代語訳)。

○神島明神森  境内島九町
鳥ノ巣より海上三町ばかりを隔てて神島にある。祭神は詳らかでない。

新庄村:紀伊続風土記(現代語訳)

「神森」とは、森そのものをお祀りする神社のこと。森そのものを神社とする神社。かつての熊野には「神森」と呼ばれる神社が各地にありました。

『紀伊続風土記』に記されたいくつかの「神森」の記述によると、「神森」には社殿があるものもあり、社殿がないものもありますが、もともとは社殿はなかったのであろうと思われます。 

古代の日本人が神様と出会う場所というのは建物のなかではなく、森のなかにぽっかりと空いた、木々に囲まれた空間であったのだろうと想像されます。おそらくは森の中にぽっかりと空いた空間が神社の始まりでした。そのような古い信仰の形が熊野では100年ほど前まで伝承されていました。

神森は明治末期の神社合祀で、ほとんどが潰されました。潰された神森の森は伐採されました。神島明神森のように神社が潰されたにも関わらず森が残されたのは極めて稀なケースです。

神島についての動画をYouTubeに公開しました。ぜひご覧ください。