11月22日は「いい夫婦の日」、夫婦ともに日本の歴史上に名を残す人物というと

北条政子
北条政子(菊池容斎画、江戸時代) パブリック・ドメイン, リンク

11月22日は「いい夫婦の日」。
夫婦ともに日本の歴史上に名を残す人物というと、源頼朝と北条政子が思い浮かびます。頼朝と政子はそれぞれ2人の変わらぬ愛の証に梛の葉を持っていたといわれます。

当時、貴族や有力武家の間では一夫多妻が普通でした。頼朝の祖父・源為義は複数の妻妾をもち、46人の子がいたといわれます。そんな時代に北条政子は頼朝が複数の妻妾をもつことを許しませんでした。

頼朝は熊野を詣でることはありませんでしたが、政子は頼朝の没後、2度の熊野詣を行っています。
1度目は承元2年(1208年)。政子52歳。頼朝の死から13年後、嫡男・頼家が暗殺されてから4年後のことです。
2度目は建保6年(1218年)。政子62歳。那智山への熊野古道沿いにある尼将軍供養塔はこのときに政子が我が子を供養するために建立したものだと伝えられます。

このあと次男の実朝の暗殺や後鳥羽上皇による承久の乱がありますが、政子はそれらの危機を乗り越えていきます。

11月20日は、いいかんぶつの日

かつお節

11月20日は「いいかんぶつの日」。

日本の三大乾物といえば昆布、鰹節、干し椎茸。
そのうちの鰹節が日本で広く使われるようになったのは、江戸時代中期頃からです。

現在の荒節に近いものが作られるようになったのが江戸時代初期。
その製法を開発したのは、紀州印南浦の漁師・角屋甚太郎(かどやじんたろう)で、延宝2年(1674年)のことだとされます。

角屋甚太郎が開発した魚肉を燻して乾燥させる「燻乾法(くんかんほう)」は熊野の浦々にも伝えられ、紀州で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)と呼ばれて人気を博しました。

熊野節の製法は紀州印南浦の漁師により土佐に伝えられ、しばらく熊野節は紀州と土佐でのみ生産されましたが、その後、安房や伊豆、薩摩にも伝えられ、それぞれの地が鰹節の名産地となりました。そうして鰹節は江戸時代中期頃から広く庶民にも使われるようになり、日本料理に欠かせない食材となったのです。

和食の味付けの基本が形作られていく過程のなかで紀州の人たちは大きな貢献を果たしました。

根津美術館にて熊野出身の茶人・川上不白の生誕300年記念特別展、昨日から開催!

昨日11月16日から東京・南青山の根津美術館にて熊野出身の茶人・川上不白の生誕300年を記念した特別展「江戸の茶の湯 川上不白 生誕三百年」が始まりました!

川上不白(かわかみ ふはく)は熊野出身の茶人。江戸千家の流祖。江戸の武家や町人に茶道を普及し、それまで男性のものであった茶道を女性にも広めました。

   十年ぶりにて古郷に帰り、熊野の御山を拝す
氏神の杉見違る茂りかな

 『不白翁句集』

不白は俳諧においては大島蓼太の門下であり、不白の晩年の句を、同門の振々亭雪太郎が聞き書きして編んだのが『不白翁句集』。不白の嗣子・自得斎宗雪によって寛政10年(1798年)に出版されました。

下の2冊は川上不白生誕300年記念出版。