今は世界遺産の神倉神社でさえ明治時代には

昨日、お燈祭りが斎行された神倉神社
神倉山は熊野の神が熊野において最初に降臨した聖地であると考えられ、そのため神倉社は熊野根本神蔵大権現とも称されました。熊野信仰にとってとても重要な場所です。

神倉社は中世には修験道の修行の場であり、近世になっても神職はおらず社僧が祭祀を執り行なっていたため、明治初期に政府が行った神仏分離は神倉社に荒廃をもたらしました。

熊野新宮の神倉山に左甚五郎が立てた高名の掛作りがあったが、維新後、神仏混淆廃止で滅却された、今もかの辺で大工の宴会に、「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と唄う、と。

「読『一代男輪講』」『南方熊楠全集』4巻

江戸時代初期の伝説的の名工・左甚五郎が建てたとされた神倉社の拝殿も明治初期に神仏分離で失われました(台風で倒壊したとも火事で焼失したともいわれます。わずか150年ほど前のことですがはっきりしません。何はともあれ神倉社の拝殿や本殿は失われました)。

荒廃した神倉社は明治末期には合祀されました。神倉社の神様は他の神社に移動させられて神倉社は廃社となり、神倉山は神様不在とされました。

次に新宮には……万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖高倉下命を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。

「神社合祀に関する意見(原稿)」白井光太郎宛書簡、明治45年2月9日付『南方熊楠全集』7巻

「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売」したのは明治40年(1907年)のことで、このときに神倉社も合祀されました。

神倉社は火災があったときには廃朝しなければならないほどに重要な神社でした。廃朝とは天皇が服喪や天変地異などのために政務を執らないこと。国家にとって重要な神社に火災が起きたときには数日間の廃朝が行われました。

それほどの神倉社でさえも合祀されましたが、さすがに他の新宮町の神社と待遇を同じくするわけにはいきませんでした。

他の新宮町の神社は旧社地を売却され森を伐られて神社が元に戻れないようにされて速玉神社(現・熊野速玉大社)境内社の琴平社(現・新宮神社)に合祀されたのに対し、神倉社は速玉神社に直接合祀されるという形になり、また合祀された神社としては異例のことですが、旧社地は売却されることもありませんでした。

そのため神倉社は大正7年(1918年)には速玉神社の摂社としてですが、神倉社の神様を旧社地に戻すことができました。合祀された神社が復社されるのは異例のことですが、合祀時の異例の対応がそれを可能にしました。

昭和4年(1929年)にはゴトビキ岩の傍に本殿が再建され、またその後、社務所や鳥居なども再建されました。そして今では世界遺産です。

しかしながら「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と歌われた拝殿は150年ほど前に失われたまま、いまだ再建できていません。

神仏分離、神社合祀。明治政府の宗教政策は熊野をボロボロにしました。合祀され廃社にされた他の新宮町の神社も現存していれば世界遺産になったものもあったかもしれません。