伊賀流忍術の始祖は

久しぶりに折り紙で手裏剣を作りました。

伊賀流忍術の始祖は御色多由也(おいろたゆや)という人物だと伝えられます。

この人物はじつは、紀元前3世紀の中国・秦の始皇帝の命で不老不死の仙薬を求めて熊野に上陸した徐福(じょふく)その人、もしくはその従者の1人だと考えられています。

熊野に上陸した徐福一行が薬草を求めて伊賀に行き、そこで大陸の先進技術とともに忍術の基礎を伝えたのが伊賀流忍術の始まりなのだそうです。

熊野では徐福が農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すき、焼き物の製法や土木、医薬などの技術などの技術を伝えたとされますが、伊賀では加えて忍術も伝えたとされるのですね。

熊野には徐福一行の上陸地だとされる場所が2ヶ所あります。
三重県熊野市波田須町和歌山県新宮市阿須賀

那智の滝の保全

那智勝浦町では今年1月に町長の諮問機関で「那智の滝保全委員会」が設置されました。今月5日に第1回の会議があって、町長が「那智の滝が流れる姿を未来永劫守っていかねばならない」というような挨拶をされたようです。
http://www.agara.co.jp/sp/news/?i=365470

今から100年ほど前に南方熊楠は、那智の滝の背後の山林を伐採したら那智の滝の水源は涸れ尽くすだろうと伐採に反対しました。

さて霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐り尽され、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候。
松村任三宛書簡、明治四十四年(1911年)八月二十九日付『全集』七巻)

そう熊楠は警告し、那智の滝の水源林の保全を訴えました。

熊楠が100年前に行ったことをいま私たちは追いかけています。私たちはまだまだ全然熊楠に追いつけていません。