ロンドン時代の南方熊楠の12月24,25日

ロンドン時代の南方熊楠の12月24,25日。熊楠の日記より(『南方熊楠日記1』『南方熊楠日記2』(八坂書房)より、てつが現代語訳)。

1895年12月25日(水)
加藤を訪ね、飯を食う。

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1896年12月24日(木)曇り
夜雨。食後バグタニと博物館人類学部及びキングス・ライブラリーを見る。

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1897年12月24日(金)
朝10時頃、高橋とともに書物をつむことを助けられる。カレーを食い、高橋が去ってから、加藤を訪ね、また大倉を訪ねるが、不在。
予は博物館に行き、ダグラスに面会し、またチケットを取り戻し、8時まで読書。帰途、高橋方に泊まる。

1897年12月25日(土)曇り
朝大霧。高橋は外出、用を立たせずに帰る。
11時高橋とともに宅に帰り、昼飯を食い、3時半頃に高橋は加藤方に行き、30分ばかり待ち、家に帰る。
予は7時半頃高橋方に行き、缶詰の鮭で酒を飲み、泊まる。(高橋は家主婦子供とサイコロを振り、また宝引きしたとのこと)
本日は霜がとけなかった。

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1898年12月24日(土)
遅くまで臥す。
夕方リード氏を訪ね、面会する。ウチワ2本を贈る。それから児玉氏を訪ねたが、不在。よって帰り、老婆の倅に3シリングやる。それから出て、近所を歩く。
伊東氏から手紙を1通受ける。

1898年12月25日(日)快晴
一日中部屋にいる。しばらくの間、福地氏の幕府衰亡論を探すが見つからず。夜遅く臥す。

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1899年12月24日(日)霧
午後、高橋を訪ね、4時過ぎからともに飯田を訪ね、5時過ぎにようやく訪ね当たる。(高橋は飯田の番地を知らなかった。ようやく飯田の旧居の隣りで聞き合わせたが、それでもわからない。たまたま小児に聞いてわかる)立談するのみ。まったく無挨拶である。這々の体で逃げ帰る。ヒル・ストリートで分かれ、予はフロム・ロードにて6ペンス豚肉を買い飲み、また高橋を訪ねた。カーが出てきて、高橋はすでに寝たという。

1899年12月25日(月)晴
午後3時まで臥す。それから高橋を訪ね、数通手紙を認める。
夜、同人が来る。ともに出て、飲んで帰る。
『風俗画報』を17冊貸す。

とくにクリスマスっぽいことはしていないようですが、クリスマスイブの今日は、東京上野の国立科学博物館で開催中の 記念企画展「南方熊楠 100年早かった智の人」へぜひどうぞ♪

八上神社の森

八上神社の森はいつ伐採されてしまったのでしようか?

和歌山県指定天然記念物の多くは昭和33年4月1日に指定されていますが、八上神社の近くにある田中神社の森はそれらに先んじて昭和31年11月13日に指定されています。これが和歌山県指定天然記念物の第1号。

八上神社の森は県指定天然記念物にはなっていません。激しい神社合祀が行われていた時期には氏子さんたちが抵抗して森を守りましたが、その後、たぶん戦時中か戦後かに伐採されてしまったのでしょう。森が残されていたら田中神社の森とともに指定されていただろうと思います。

八上神社の森が伐採されてしまったので、田中神社の氏子さんたちが森を伐採されないように田中神社の森の天然記念物指定を急いだのではないか、と想像します。

熊楠が「シイノキ密生して昼もなお闇く、小生、平田大臣に見せんとして写真とりに行きしに光線入らず、止むを得ず社殿の後よりその一部を写せしほどのことなり」と述べた森がかつて八上神社にはありました。
http://www.minakatella.net/letters/2sho12.html

南方熊楠は日本人の夢

昨日放送された南方熊楠生誕150周年記念のシンポジウムのなかでコーディネーターの中沢新一氏は「熊楠は日本人の夢」だとおっしゃられました。

私の夢も、熊楠が100年前に考えていたことの一部を実現することです。それは、熊野を世界の人々が訪れる持続可能な観光地にすること。

それは熊楠が100年前に夢見ていた地域の未来。
http://www.mikumano.net/nikki/20160910.html