熊野権現の元にあった源氏重代の剣、壇ノ浦の戦いの前年に義経の元に

湛増着用と伝わる鉄烏帽子
湛増着用と伝わる鉄烏帽子 闘鶏神社所蔵

本日3月24日は壇ノ浦の戦いが行われた日。
元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で源平最後の合戦が行われました。

壇ノ浦の戦いの源氏の総大将は源義経。
源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻(つるぎのまき)」では、熊野権現の元にあった源氏重代の剣が壇ノ浦の戦いの前年に義経に手渡されたと語られます。

湛増別当は、「源氏は我等の母方である。源氏の代となるのは悦ばしい。兵衛佐頼朝も湛増にとっては親しい間柄である。その弟範頼・義経、佐殿の代官にて木曾を追討し、平家を攻めに下られるとの由が聞こえた。源氏重代の剣、元は膝丸、蛛切、今は吼丸という剣が為義の手により教真が得て権現に奉納したものを、申し請けて源氏に与え、平家を討たせよう」と申し上げて、権現に申し賜って都に上り、九郎義経に渡した。

義経はとくに悦んで「薄緑」と改名した。その故は、熊野より春の山を分けて出たからであった。夏山は緑も深く、春は薄かろう。されば春の山を分け出でたので、薄緑と名付けた。この剣を得てより、これまで平家に従っていた山陰・山陽の輩、南海・西海の兵どもが源氏に付いたのは不思議であった。

『剣巻』現代語訳6 源義経1:熊野の説話

義経率いる源氏軍に熊野水軍も付き、平家は壇ノ浦に沈みました。
平家物語11 湛増、壇ノ浦へ:熊野の説話

本日3月24日は熊野水軍が参戦した海戦「壇ノ浦の戦い」が行われた日

「熊野水軍出陣の地」の碑 扇ヶ浜

本日3月24日は壇ノ浦の戦いが行われた日。
元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で源平最後の合戦が行われました。

この海戦には熊野水軍も参戦しました。熊野水軍の船が壇ノ浦に近づくと源氏からも平家からも拝まれました。熊野とはそういう特別な場所だったのです。

熊野別当湛増(たんぞう)は、平家につくべきか、源氏につくべきかと言って、田辺の新熊野(たなべのいまくまの:現・闘鶏神社)で御神楽を奏して権現を祈誓し申し上げる。「白旗(しらはた:源氏)につけ」との権現の仰せを、なお疑って、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で勝負させる。赤い鶏はひとつも勝たない。みな負けて逃げてしまった。それでは源氏につこうと思い定めた。

一門の者を呼び寄せ、都合その勢2000余人、200余艘の舟に乗りつれて、若王子(にゃくおうじ:熊野五所王子のひとつ。本地仏は十一面観音)の御正体を船に乗せ申し上げて、旗の横上には、金剛童子をかきたてまつって、壇の浦へ近づいて来るのを見て、源氏も平家もともに拝む。しかしながら源氏の方へついたので、平家は意気消沈した。

平家物語11 湛増、壇ノ浦へ:熊野の説話

湛増率いる熊野水軍は源氏方に付き、源氏方の勝利に貢献しました。

壇ノ浦の合戦の翌年、湛増は鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府の将軍直属の家臣)となりました。

湛増着用の鉄烏帽子 闘鶏神社所蔵

湛増について詳しくはこちら。
https://www.tanzou.net/

疫病にかかり重症となった僧がかつて行った熊野参詣の功徳で快復したという話

梛の葉
梛の葉

疫病にかかり重症となった僧がかつて行った熊野参詣の功徳で快復したという話が鎌倉時代の仏教説話集『雑談集(ぞうたんしゅう)』に収められています。

この僧が伝えることによると、梛の葉を兜につけた金剛童子(熊野神のひとつ)と思われるものが疫神と戦って命を救ってくれたとのこと。

熊野を参詣された方々にご加護がありますように。

読経の徳の事ならびに神徳(現代語訳)