南方熊楠と大逆事件の犠牲者

成石平四郎・勘三郎兄弟の碑

大逆事件で死刑判決を受けた24人のうち6人が熊野人でした。

大石誠之助(和歌山県新宮町)、成石平四郎(和歌山県請川村)、高木顕明(和歌山県新宮町)、峯尾節堂(和歌山県新宮町)、崎久保誓一(三重県市木村)、成石勘三郎(和歌山県請川村)。

6人のうち実際に死刑となったのは2人。大石誠之助と成石平四郎。他の4人は特赦で減刑されて無期刑となりました。無期刑となった4人のうち高木顕明と峯尾節堂は獄死し、崎久保誓一と成石勘三郎は仮出獄を許されました。

この6人のうち南方熊楠の面識があったのは死刑となった成石平四郎でした。
またその兄、成石勘三郎については面識はなかったものの、請川村の人たちが成石勘三郎の仮出獄の請願をしたときには南方熊楠も力添えをしました。

仮出獄を許されたのは昭和4年(1929年)4月29日。30歳で服役した成石勘三郎は49歳になっていました。
5月に帰郷し、その後、熊楠の力添えのあったことを知った勘三郎は書簡で熊楠へ感謝を伝えました。

昨秋でした、川島君の友に植幸吉というのが当地にありまして、田辺からの帰りがけの御噺に、
「君が今回仮出獄を戴いたについては、川島君の御話では、南方先生が非常に御骨折り下さったのだ、そしてまだこの上にも、仮出獄という名義を除いて復権されるように、御骨折りくださってあるから、謹慎して且つ楽しく待つように」
と告げられまして、誠に有難く、窃に落涙致しました。私のような煩悩具足の五逆十意なさざるなき人非人を恒に御心にかけて、ああ獄中では苦しい事であろう、何とかして出してやる方法もがなと御配慮下されしは、皆如来の御紹介に依る尊い交誼、真個に御礼の申す辞葉もない次第でございます。万望この上ながら御縁乎を以て種々御配慮下さいませ。

杉中浩一郎『南紀・史的雑筆』「出獄後の成石勘三郎」
※昭和5年1月31日付の成石勘三郎の南方熊楠宛書簡は、他では活字化されていないようなので、こちらから孫引きしました。読みやすくするため一部改変。

この書簡が届いた翌日に熊楠は返事を出しましたが、返信の書簡は見つからず、それがどのような内容であったのかはわかりません。

成石勘三郎は逮捕前には若くして請川村の村会議員を務めていた人物で、仮出獄の請願には湯の峰生まれの禅僧・山本玄峰も力添えをしました。

成石勘三郎は熊楠へのお礼の書簡を出してからおよそ1年後の昭和6年(1931年)1月3日に50歳で病没しました。

成石平四郎と成石勘三郎夫妻の墓
成石勘三郎夫妻の墓

本日1月25日は大逆事件で女性としてただ1人死刑執行された管野スガが処刑された日

Kanno.Suga.jpg
The japanese anarchist feminist journalist, Kanno Suga, hanged in 1911 by conspiration against the emperorhttp://core.ecu.edu/hist/tuckerjo/taishowomen.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

本日1月25日は大逆事件で女性としてただ1人死刑執行された管野スガ(かんの すが)が処刑された日。

明治44年(1911年)1月25日のことです。幸徳秋水大石誠之助ら11人が処刑された翌日に管野スガは処刑されました。29歳の若さでした。

管野スガは明治時代の新聞記者、社会主義者。大阪生まれで大阪や東京で新聞記者をしましたが、いっとき田辺に住んで『牟婁新報』の記者をしていた時期がありました。『牟婁新報』では主筆の毛利柴庵が入獄中には管野が主筆代行も努めました。優秀なジャーナリストであったのでしょう。『牟婁新報』では和歌山県の公娼設置決議に反対する論陣を張ったりもしました。

管野スガの『牟婁新報』の記事を1つ。

▲洋傘持たざりしを悔ゆる程の暖かさ。黄金の華とばかり美しき鈴なりの金柑樹の多きに驚き、蒲公英(タンポポ)、蓮華草(レンゲソウ)の美わしきに見惚れ、白紫とりどりの菫(スミレ)の愛らしさに心をひかされ、桃の花美しきに我を忘れ上秋津の葉枯れし凱旋門に都を偲び、機織る乙女の鄙歌に謂い知らぬ感に打たれ、里を離れ堤を伝い、かくてようよう白竜の滝を見し時の嬉しさ。
▲奇絶峡とや、げに。されど。
奇なる山、怪なる石、玉と散りつつ流るる水、それらを一々説うんは烏呼(おこ:愚か)なり。何となれば、この記事を掲ぐる本紙はこの勝景の専有主たる、田辺に於いて発行せらるるものなればなり。

須賀子「半日の閑」(『牟婁新報』明治39年3月21日付)

須賀子は管野スガのペンネーム。田辺の名勝・奇絶峡がいかに美しい所であったのかが伝わってきます。

大逆事件で死刑となった、南方熊楠の知人

成石勘三郎・平四郎兄弟の墓、成石平四郎兄弟の碑

本日1月24日は大逆事件の関係者11人が処刑された日。明治44年(1911年)のことです。

熊野地方から大逆罪で逮捕されて死刑となったのは2人。新宮町(現・和歌山県新宮市新宮)の大石誠之助と、請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎。このうちの成石平四郎は南方熊楠の知人でした。

熊楠と成石平四郎が出会ったのは明治38年(1905年)7月28日。川島草堂という共通の友人の引き合わせでした。

川島氏、成石氏つれ来たり酒のみに行く。予は行かず。

『南方熊楠日記(3)』八坂書房

熊楠が39歳、成石平四郎が中央大学在籍中の22歳のときに2人は田辺で初めて出会いました。そしてその3年後の明治41年(1908年)11月に請川村の川湯温泉で2度目の出会いがあり、それから幾度かの書簡のやり取りが行われました。

判決が下された翌日、明治44年(1911)1月19日の熊楠の日記には次のように記されています。

昨日大逆事件言渡しあり。幸徳、管野以下二十四名死刑。(知人成石平四郎及びその兄勘三郎(予知らず)もあり、明治十三年と十五年生れなり。)他二人懲役。理由書二百枚ありし由鶴裁判長これを読めり。

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

成石平四郎と兄の勘三郎ともに死刑の判決。平四郎が28歳、勘三郎が30歳。成石勘三郎は若くして村会議員を務めていた人物ですが、熊楠とは面識がありませんでした。

24名に死刑判決が下されましたが、翌日に特赦で半分の12名が無期懲役に減刑されました。その結果、成石平四郎は死刑、勘三郎は無期懲役となりました。死刑判決から6日後、1月24日の熊楠の日記。

本日午前九時より午後に渉り幸徳伝次郎以下十二名死刑執行、成石平四郎もあり。

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

この大逆事件は当時でも国家によるフレームアップなのではないかと考えられ、アメリカやイギリスやフランスでは抗議運動が起こり、各国の日本大使館に抗議デモが押し寄せたために政府は判決、処刑を急がせたのでしょう。

翌25日の夜、川島草堂がやってきて、川島に宛てて出された成石平四郎最後のハガキを見せられ、熊楠はその文を紙片に写し取り、日記に貼り付けました。その後、30日の午後に熊楠のもとにも成石平四郎からのハガキが届きました。

午下成石平四郎死刑一月下旬の日付、一月二十八日牛込の消印ある葉書届く。
  和歌山県田辺町 南方熊楠先生と表宛し、
先生これまで眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。ただこの上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもっています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になったので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせこんな男は百まで生たって小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におったて往生は畳の上ときまらん。そう思うと、御念入の往生もありがたいです。右はちょっとこの世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎四十四年一月下旬

『南方熊楠日記(4)』八坂書房

熊楠はどのような思いでこのハガキの文面を日記に書き写したのでしょうか。