今年5月11日に建立20周年を迎える熊野本宮大社旧社地の大鳥居

熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)の大鳥居が今年5月11日に建立20周年を迎えます。
そのため熊野本宮大社では令和2年1月1日から5月11日までの期間限定で「大鳥居建立二十周年特別御朱印」を授与しています。
大鳥居建立20周年 – 熊野本宮大社 | 公式サイト

熊野本宮大社旧社地大鳥居

この大鳥居は世界平和などを祈念して2000年に建立されました。

日本の観光の原点が中世の熊野詣であり、大斎原こそがその旅の目的地でした。

日本の観光の原点の地である大斎原で世界平和を祈念するというのはとても意義深いことだと思います。観光にとって何よりも大切なのが平和です。

日本はいま国を挙げて観光立国を目指しており、また和歌山県も観光立県を目指していますが、観光産業は平和でなければ成り立ちません。平和あっての観光です。

観光立国・観光立県するには当然、海外からの観光客を積極的に受け入れることが必要であり、外国人観光客を受け入れることは世界平和の構築に必要とされるお互いに相手を知るという体験を生み出します。日本が観光立国を目指し、和歌山県が観光立県を目指すと宣言することは、日本や和歌山県が世界平和の構築に貢献するのだという意思表明なのです。

周辺地域で戦争が起ころうとも日本は安全だからと外国人に観光に来てもらえるくらいに世界平和への貢献度の高い国に日本がなれたらなあと思います。日本の観光の原点の地である熊野にもより大きな貢献が求められることと思います。

熊野本宮大社旧社地大鳥居

熊野はまた世界遺産でもあります。世界遺産は、国際連合の専門機関のひとつであるユネスコ(UNESCO、国連教育科学文化機関)が主催する事業です。ユネスコの目的は、教育、科学及び文化を通じて、世界の平和と安全に貢献することであり、そのユネスコの事業である世界遺産も、その意義はもちろん世界の平和と安全への貢献にあります。

ですので、世界遺産のある地域の住民は、自分たちが地域で行っていることが世界の平和と安全への貢献であることを意識する必要があります。世界遺産は不動産ですが、その地域の住民は心のなかにこそ世界遺産を持たなければならないのです。

八咫烏神事に参列

熊野本宮大社
熊野本宮大社

昨日1月7日、熊野本宮大社で行われた令和最初の八咫烏神事に参列しました。
烏文字でデザインされ「お烏様」とも呼ばれる熊野牛王神符を松明の火によって清め、年頭に松の木から作った宝印(寺社で用いる印鑑)を拝殿の御柱に押し初めする神事。

神事の後、参列者は白紙の半紙に宝印を受けて、宝印の押印のみの特別な牛王神符「白玉牛王(しらたまごおう)」を授与されます。この白玉牛王の授与が楽しくて私はこの数年毎年参列しています。

白玉牛王
白玉牛王

熊野三山の宝印はそれぞれ異なりますが、この本宮の宝印はたぶん仏の象徴とされる宝珠3つを火炎が包んでいる図ではないかと思います。3つの宝珠は熊野三所権現(本宮の家都御子神=阿弥陀如来・新宮の熊野速玉神=薬師如来・那智の熊野夫須美神=観音菩薩)を表しているのでしょう。

熊野本宮大社の通常の熊野牛王神符はこちら。

熊野本宮大社の熊野牛王神符、中央の朱の押印が宝印

八咫烏神事という名前はたぶん最近の呼び方です。江戸時代には1月7日の夜に「宝印神事神楽宮籠」が行われており、これが八咫烏神事の元だと思われます。
本宮 年中行事:『紀伊続風土記』現代語訳

熊野牛王神符にまつわる年頭の行事は私は熊野本宮大社のものしか参列したことはありませんが、熊野三山それぞれで行われているものと思われます。

江戸時代には那智ではやはり1月7日夜に「牛王開眼」が行われており、新宮では1月1日から7日にかけて「牛王宝印加持」が行われていました。
那智山 年中行事:『紀伊続風土記』現代語訳
新宮 年中行事:『紀伊続風土記』現代語訳

下の写真は2016年1月7日に白玉午王を授与される私。

本日12/29は南方熊楠の命日

南方熊楠の墓
南方熊楠の墓

本日12月29日は熊楠忌 。南方熊楠の78回目の命日。

南方熊楠は、明治から昭和の初期という日本が近代化に躍起になっていた時代にあって、世界を舞台に異能を発揮した在野の学者です。イギリスの科学雑誌『ネイチャー』への掲載論文51篇は、日本人最多で、世界でも最多だと考えられます。

熊楠の墓は田辺の古刹・高山寺にあります。高山寺に隣接してあった猿神社の森の伐採が熊楠が神社合祀反対運動に立ち上がるきっかけとなりました。

猿神社の森が伐採された後、変形菌研究の世界的権威である英国のグリエルマ・リスターに宛てた書簡に熊楠は次のように記しました(私による日本語訳)。

糸田の猿神に関しては、樹齢何百年のタブノキの保護どころの騒ぎではなく、この神社の神聖さを深めていたすべての木々が完全に姿を消したことを見つけてからの帰路、私は絶望で茫然自失したと言わなければなりません。風景は全く破壊されました。この国で近年日常的に行われているこの種の野蛮な行為は、ほどなく日本人の愛国的な感覚や美的な感覚の惨たんたる破滅という結果をもたらすように思われます。ラスキンやカーライルとともに、私は、現代の進歩が本当に人間のためになることであるのかどうか疑問に思います。

グリエルマ・リスター宛書簡、1909年2月19日付 山本幸憲編『南方熊楠・リスター往復書簡』(南方熊楠邸保存顕彰会)から日本語訳

これに対するグリエルマ・リスターからの返信は次のようでした(私による日本語訳)。

糸田の神社のまわりの貴重な森の無慈悲な破壊と風景の荒廃を残念に思う気持ちはあなたと共にあります。タブノキは私たちにとってよい友でした。国はじっとしていることができません。しかし「進歩」のためにそのような大きな代償を払わなければならないのならとても悲しいと私は思います。

グリエルマ・リスターからの南方熊楠宛書簡、1909年5月26日付 山本幸憲編『南方熊楠・リスター往復書簡』(南方熊楠邸保存顕彰会)から日本語訳

熊楠が100年ほど前にエコロギー(エコロジー)という言葉を使って行った神社合祀反対運動がどのような理由からなされたものであったのか、ぜひ「神社合祀に関する意見」や「南方二書」を読んでいただきたいです。

南方熊楠の墓
南方熊楠の墓